海とぶどうジュース(ショートショート)
海の色を吸い込んだブドウは、深い深い紫色になります。その色の奥に宿った青色は、食味に、突き抜けるような爽やかさとともに、海底を漂うような底知れない深みを与えます。
***
恐怖の飲み物という触れ込みが気になり、手に入れたジュース。
どうやらぶどうジュースらしい。
正直、どこにでもある普通のぶどうジュースにしか見えない。
噂では、これを飲むと、形容しがたい恐怖に飲まれてしまうらしいのだけれど、本当だろうか。
興味本位で試すには少々高価な買い物ではあったけれど、これを飲んだ時に一体どんなことが起こるのか。それが気になって仕方がなかった。
「一口飲んでみろよ」友人のAが茶化すように言う。
「分かったから、ちょっと待てって」
僕は彼を手で制しながら言う。もう一方の手では、すでにコップにぶどうジュースを注いでいる。
「本当にやばかったら、俺ら逃げるからな」とB。
「おいおい、まじかよ。それはずるいって」僕は大げさに批判する。
「冗談だよ」「何かあったら助けてやるから」
全く、冗談なんだか本気なんだか、よく分からないやつらだ。
「頼むぞ、本当に」僕はコップに口を付ける瞬間に彼らの方を見て忠告をする。分かったわかった。適当な返事が返ってくる。
まったく……。と思いながら、一口。
ブドウの酸味が一気に来る。うっ、とむせそうになったかと思うと、瞬時にとてつもない爽やかさが喉を抜けていく。
うわ、これ独特な味だけど、なんか好きかもしれない。
その感想を、他の二人に伝えようとした瞬間だった。
目の前の景色が暗転する。周囲に自分を取り囲む、自由に動ける空間があるはずなのに、一ミリも体を動かすことができない。
何だこれ。どうなっているんだろう。腕が上がらない。さっきからずっと、頭を持ち上げることができない。力を込めているはずなのに、一切持ち上がらない。
嘘だろ。どうする。どうすればいい。誰も居ない。何も見えない。まるで、どこまでも永遠に続く、深海の真っただ中に一人でうずくまっているような感覚。
助けてもらえる気がしない。自分を助ける方法も分からない。どうしよう。怖い。誰か助けて。誰か──。
「おい! 大丈夫か?」
声が聞こえた。僕の両脇に友人二人がいる。天井からの明かりが眩しい。いつもはそれほど気にならないのに。
「急に倒れるから、びっくりしたよ。いくら呼びかけても低く唸るだけだし」
「意識があるんだか、無いんだか、ふざけてるんだか本気なんだか、分からな過ぎて本当に焦った」
僕も焦った。このままどうすることもできず、ずっと海の底みたいなところで一生を過ごすのかと、本気で思ってしまった。
「助けてくれてありがとう。本当にどうなるかと思った」
「無事でよかった」「本当にな」
それから数日後、そのぶどうジュースの販売は中止になった。もともと原液を希釈して飲むものだったらしく、そのままで飲んだ人たちから様々な症状が現れたとのことだった。
ただ、症状が現れる人にもある程度特徴があるらしく、乗り物酔い、特に船酔いしやすい人にそれが現れたらしい。
けれど結局その話も、噂程度にしかすぎず、真偽のほどは今も分かっていない。
現在は、すでに適切な濃度に希釈されたものが販売されていて、僕もそれを愛飲している。
あんな目に遭っても、まだ飲みたくなるほどにはうまいジュースなのだ、これが。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?