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自己紹介 | 眼科専門医 x ピアノ弾きとして

呼び名。たけるくんとか、たけるさんとか、なぜか帰国後はたける先生と言われることが多くなってきました。。先生つくとちょっと構えるので、つけなくってもいいよー。こどものころからずっとfirst nameで呼ばれ続けてるので、苗字の方が違和感があって記号的な感じ。

なぜ「たける眼科」?

「たける眼科」って名前にしたのは、西新周辺には同じ苗字の病院・商店がいくつもあるからです。ゆかり眼科、まり眼科は東京でみたことあるけど、男がfirst nameでやるなんて?やっぱりインパクトがある。高取眼科?も、なんかあわないね。診療を担当する医師はわたしひとりだけです。

* 商店街のどこにあるかわからないよって意見があって、西新商店街〜藤崎商店街の間に道案内の看板をいくつも出しました。

長崎〜山口宇部〜福岡へ | 医局生活のはじまり

2001年に長崎大学の医学部を卒業して、すぐに山口の宇部に引っ越しました。九州大学眼科の医局に入れてもらえたけど、山口大学眼科で1年間研修医してきなさいってことだったんです。いまで言うブラックというものをはるかに超えていたのかもしれなくて、早朝から夜中12時近くまで働いて、終わったらときどき教授室で3時くらいまでお話聴いたりした。あとで残業時間計算してみたら300時間くらいだったようです。それでも、当時の西田教授の情熱話を聴くのは楽しかった。こんな働き方は誰にも勧められませんが、いま楽しく生きているのでいい思い出です。

2年目は九大病院の研修医、「白い巨塔」みたいな医局生活。このころ園田先生(いまの九大教授)に会って、いい先生だなーとびっくりした。専門にした「ぶどう膜炎」、透明な目玉の中がいきなり濁ってしまうようなひどい病気です(詳しくはこの稿に書きません)。まだわからないことが多いらしく、勉強したくなりました。「ぶどう膜炎専門外来」をされてあったので、入れてもらおうと先輩の先生について焼肉会に行ったのですが、なぜか相手にされなかった。中南米顔長髪で君はあやしいねーと言われてたので、だったんでしょう。それでもすぐぶどう膜炎外来には関わらせてもらえて、今度は基礎から免疫学を勉強したくなりました。

* 医局:お医者さんが入門する「相撲部屋」に近い組織かな、と思います。親方→「教授」。同門会で「同じ釜の飯の仲間」って話してるのをきいたことがあります。似てそうですね。

「免疫学」の世界に

「免疫」って名前がついているところに行こうと、検索して電話して九大医学部敷地内の先生に会いに行った。知らなかったけど、吉村昭彦教授はとっても有名なひとらしい(いまの慶應医学部教授)。
やっぱりあまり相手にしてもらえてない風で、眼科はヒマだろーくらいの感じでした(実際は忙しいよー ← 眼科を考えてる研修医のかたへ)。

医局には入学以来輝いているスーパーエクセレントみたいなひとがいます。私は全く関係なかったので、当時の九大教授石橋先生もあっさりOK、「九州大学生体防御医学研究所免疫制御学教室」というたいそうな名前のところに入り込んでしまいました。九大眼科医局の先輩の武田先生(いまの九大眼科講師)がいらしたことも知らず、ラボで初対面でした。

初日に30人くらいのセミナー(勉強会)があっていて、一言もわからなかった。それは当然、長崎大学のときには免疫学の授業もほとんどわからずで実験もしたことなかったので。大きくなった研究室の分家、九大敷地内新築のとても綺麗なラボに来ました。試薬を測り取る「ピペットマン」を配られるも、小さいサイズ〜大きいサイズまで4種類あることさえも知らなかった。それまでに全く関係なかったようなことを始めてしまいました。武田先生には全くのゼロから実験を教えてもらって、夜は居酒屋や定食屋に。また夜中まで仕事(実験)する生活。。

「免疫学」を勉強すると決めたものの、ほんとうにゼロからのスタートで1-2年は殆どわからず実験していました。偶然うまく行ったらしい結果で、上司の先生たちが喜んでいることすらもよくわからなかった。そうしているうちに英語の教科書も論文も、少しはわかるようになって、3年目には学位論文を発表できるくらいになってきました。上司の先生たちには大変な苦労をおかけしまして、アメリカ免疫学会誌に新しい医学情報を発表できたわけです。生体防御医学研究所の審査を終わっていただいた学位、いま何かの役に立っているかはわかりません。

ねずみにぶどう膜炎を起こして、病気の成り立ちや薬の効果を研究するという方法があります。免疫学入り後3年目くらいには眼科の医局にも出入りして、園田先生とたくさんのねずみたちと実験するようになりました。「今日もベートーベンが来とる。」と教授の石橋先生に言われたり。学会発表もたくさんできて、楽しい医局/研究生活。

ボストンへ✈️

園田先生はいつもアイデアが湧いて出てくるような天才的なかた。えらく話しやすかったので、なぜか私は偉い先生とは気づかずにいました。。皆で楽しく研究をしていたら、いくつも成果が出ていました。留学助成金を出せるだけ応募したら、いくつも採択されてしまいボストンへ行けることになりました。それまでは福岡市南区の日赤病院に勤務。

ボストンのハーバード大学医学部は、そのころ読みまくっていた論文の憧れの著者が普通にスタバにいてお話できてしまうような環境でした。ジャズならロンカーターやケニーバロンとお話できてしまうような感じ。レッドソックスのマニーラミレスにも、道端で会ったよ。引っ越しして研究をまたゼロからやってみたけど、生活費の高いボストンで安月給の研究員をやる、辛い時間は長かったかなと。それでもたくさんの友人ができて、少し研究成果を出すことはできました。イスラエル人と一緒のお仕事で、アメリカで製薬の特許を取れたのはいい経験。

帰国

帰国して九大に戻ったら、たくさん後輩がいました。中堅医師になっていたということです。大学病院の医師は研究・臨床・教育をします。合間と休日にアルバイト診療に出向く生活。自分がしたいこと、これからどう生きていくか、また考え込んでしまう状況になりました。地域のお医者さんをしたいので医学部に入ったけど、研究ばっかりやってしまった。後輩の医学博士学位取得のお手伝いできたことは、とても嬉しかった。園田先生不在のぶどう膜炎外来は、崖っ淵で自分たちで考えられる基礎になった。いまでも免疫学を考えることが好きすぎて、診療中の思考に強い影響を及ぼしています。

車の運転をやめた

帰国後運転中に別のことを考えて危険な目にあって、結局は運転することをやめました。事故を起こしたわけではないし、免許もそのままです。以後の人生設計は、運転なしで仕事場に行けるところしか選択肢がない状態になりました。

糸島での診療

糸島にひとつ募集があるとの情報があって、移籍しようと決めてしまった。福岡で有名な林眼科の新しい分院、医師ひとりの支店長みたいな立場です。
転職は伝統の医局の常識外れです。だいぶおこられましたが、医局を離れた勤務をはじめました。毎日筑肥線の窓から玄界灘を眺めながらの通勤、新興住宅地でのたくさんの患者さんとの出会い。結果的にこれが本当にいい経験になりました。

聴覚過敏と絶対音感

わたしは軽度の聴覚過敏みたいです。それと絶対音感がある:周りの音が、ドレミの和音として聴こえる状態です。音楽教育を受けた訳ではなく、なぜだかわかりません。
中南米音楽の雑音混じりの音源から、譜面を起こして少しアレンジしたりできます。
それより音のあるところで集中力は続かないなど、音楽の他でいいことはほとんどない。
考え方を変えて、ひとのお役に立てて無音にもなれる環境を自分で作ろうと思えるようになりました。

高取商店街との出会い

糸島へ通い始めて2年くらい、藤崎駅で地下鉄を降りて商店街を歩いていると、クリニック募集の看板をみつけました。みんながいつでも歩いて通える小さなクリニックを作って、地域の優しいお医者さんができるって直感で結論が出ました。でも開業のやり方なんて全くわからない。またゼロからはじめて、今に至る。みなさま本当にありがとうございます。

手術をしない眼科

眼科は20-30年で凄い速さで機械や技術が進歩して、白内障手術が安全確実にできる眼科がたくさんできました。厭わず手術加療を勧める機会も多くなる。

たける眼科は、白内障手術設備を持たないクリニックです。様々な目の病気、なるべく手術をしないで良い方向に持っていきたいと思っています。本当に必要と判断したときに、確実に対応できるようにしました。予防医学が、本当に大切と思えるようになりました。助けてくれる医局つながりの先生たち本当にありがとうございます。

商店街でやっていきたいこと | みんなが楽しい企画を

商店街の知り合いが増えて、藤崎から西新まで歩くだけでいろんなひとにあいさつするような状況になりました。今年の冬には西南学院のアカペラサークルSains voiceの子たちが、日曜休日の眼科でコンサートをしてくれました。向かいのワインレストラン(ビオワルン)でクラシック室内楽の小さな演奏会を企画しましょうねって話がまとまってたら、コロナ騒動になりました。去年出演できた中洲ジャズも、今年はありません。高取商店街土曜夜市も、今年はしないことになりました。地域のみんなが楽しい企画をやっていきたいと思っています、でも今はまだ何もできない状態です。

診療以外の、いま興味のあること | IT、SNS、デザイン

高取商店街で眼科をつくるにあたり、ひとりでたくさんのことを考えました。ITで業務効率化、小さなクリニックで皆が仕事をしやすい状態にしました。眼科・免疫・音楽以外でも、異分野のたくさんの本を読むとわかってくることも多くありました。そして、ひとに会いに行ってわかってくることもある。SNSはボストンでの黎明期から遊んでいたにもかかわらず、混沌の中で未だに上手に使えてるのかどうかわからない状態。自作したホームページを通じて、デザインの法則を学んでみることも楽しい。

いつもありがとうございます

喘息で何度か死にかけた過去があるからかわからないけど、生きてるだけで良かったーという考えがやっぱりあります。ひとりひとりのかたへ一生懸命診療していたら、クリニックが成り立ってきました。自分がせっかく健康になれたから、みんなが幸せになれるように一生懸命生きたいと思います。家族、クリニックのスタッフ、頼ってきてくれる患者さん、友だち、お医者さんつながり、他もみんなとっても大事です。いつもありがとうございます。これからもよろしくお願いします。


* 読んでいただいてありがとうございます。興味あるかただけに、、敢えて思ったとおり書いてみました。
* お話聴きたいって、なぜか近所の研修医のかたが先週来てくれた。だいぶ外れてるので参考にならないよって。話してた内容から、文章書こうと思いました。
* 池松潤さんには、ずいぶん前からnoteの良さを語っていただいていました!

過去よりも、今後を楽しみにします。よろしくお願いします。

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