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「Twitter」のラベルは論文の註と同じ

『ウィキペディア』の記事の中で、もし自分が書いた箇所に「要出典」のタグが付けられたら、あなたはどうするだろうか。たいていの執筆者は、自分の書いた内容が確かであるという自信があるなら、定評のある書籍や論文などを選んで出典を追記しようとするであろう。ふてくされて「言論の自由を抑圧している」「黙殺しようとしている」と反撥する者も中にはいるだろうが、そんな言いがかりに読者が付き合うはずはない。ところが、目下それを地でいっているのが、ほかでもない北米合衆国の現職大統領なのである。

今となっては真に受ける者などいないが──まあ、いるにはいるだろうけれども──郵送投票をやると投票用紙が偽造されて不正が横行するという、この虚言癖の常習犯の投稿に対して、ツイッター社がご丁寧にも要確認のマークを付け、関連のニュース記事へのリンクまで用意した。ドナルド・トランプ氏にしてみれば、文字通り息を吐くように噓を吐(つ)くのが彼の流儀だろうから、こんなもの気にせず、いつもどおりおやりになればいいものを、なんと「強力に規制するか、閉鎖させる」と激昂し、今となってはソーシャル・メディアへの法的保護を剥奪する大統領令までこしらえる始末だ。

このような児戯に等しい言動など論外であって、「Twitter」のラベルに相当する取り組みは、学術の世界では当たり前のこととして行われているものである。大学教育を真面目に受けた者なら誰でも知っているはずだが、論文を作成するときには、必ず事実や主張を裏付ける出典の記載を求められる。というのは、自ら述べる事柄が根拠のない強辯ではないことを、書き手は示さなければならないからである。また、読み手にとっても、内容を更に深く知るための手がかりを得られるという点で重要となる。

『ウィキペディア』が、万人にしかも匿名で執筆を許可しているにも拘わらず、一定の信憑性を確保できているのは、この論文執筆の作法を採り入れているからであろう。著者が主張とその論拠を示し、読者も内容を鵜呑みにせずに自ら検証に当たる──こうして両者がともに議論を洗練させていくという営みが、「開かれた社会」を構築するうえで是非とも必要であることは、英国の哲学者カール・ポッパーが述べたとおりである。

言論弾圧だというトランプ氏の指摘は全く当たらない。なぜなら、ツイッター社の措置は、一方的に削除するでもなく、ただ投稿に註釈を付けるだけという、至極穏当なものだからである。またこれは、読み手が自分で内容を判断するように促すものだから、フェイスブック社CEOのマーク・ザッカーバーグ氏の「真実の裁定者になってはならない」という発言も見当違いだ。本来、主張の典拠を示す責任は発信側にある。疑義があるという申し立てに対しては、その疑念を晴らせる証拠を出せばいいだけの話だ。そうでなければ、権威主義体制の中国に示しがつかないだろう。

今までインターネット上の空間では、典拠を示す必要性がないのをいいことに、コンテンツは無秩序に書き散らされ、無批判に受け容れられるがままに任されてきた。ファクト・チェックを促す仕組みがもう少し早く確立されていれば、トイレットペーパーが品薄になるだの、血液クレンジングだの、「幸」は手錠の形だのといった流言蜚語も、速やかに修正されていたに違いない。

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