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萱野稔人『死刑──その哲学的考察』

写真 ピサネロ画

世界中が死刑廃止に向かう中、今なお死刑を存置している日本は少数派である。実に国民の8割が支持しているとのことだが、死刑賛成派は果たしてこの本を読んでもなお、考えは揺らがないであろうか。

萱野稔人『死刑──その哲学的考察』(ちくま新書)、筑摩書房、2017年

例えば、死刑が廃止されれば、凶悪犯罪が増えてしまいかねないと考える向きは多いであろう。だが、社会への復讐を狙って、自らの道連れとするために実行される殺人もある。つまり、死刑が凶悪犯罪を誘発する事例もあるというわけだ。

また、現行犯逮捕など、冤罪のおそれがないケースならば、殺人犯を死刑に委ねても問題ないという考えもあるだろう。しかし、犯罪の凶悪性や重大性ではなく、逮捕されたときの様態の違いによって、適用する刑罰を変えるというような運用の仕方は適切といえるであろうか。

本書の要旨

本書で萱野は、死刑の犯罪抑止力に疑念を呈し、それでもなお死刑が支持される背景にある、処罰感情に基づいた「道徳的な歯止め」の検討に進む。

その検討の中では、哲学者カント(1724–1804)の定言命法(「汝の意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」)が取り上げられている。これを演繹するなら、人を殺せばそれが普遍的な立法の原理となり、他人が自分を殺すことも認めることになる。言い換えれば、「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」ということであり、その根柢に応報論が存することが見出される。だが、応報論は結局二つの事物の価値の釣り合いを保つだけであり、ある犯罪に対して死刑を適用すべきか否かという問いに対して答えを出すことはできない。

そこで萱野は処罰権行使の態様の検討に移り、公権力の性質上冤罪は不可避であるとの理由から、死刑は是認できないとし、代替として終身刑を提案する。

本書の眼目は、死刑の存置理由となっている人々の処罰感情と、冤罪による処刑を回避するための終身刑は十分両立するという点にある。死刑により却って凶悪犯罪が発生してしまう場合があること、そして権力の構造上冤罪は根絶できないことから、死刑を存置する理由は見当たらないというのが、萱野の主張である。

但し、萱野も公権力そのものを否定しているわけではない。公権力が存在しない状態は単なる弱肉強食の世界であり、知識人がよく唱えるような「国家なき社会」は妄想に過ぎないとして排斥されている。この点で、権力を絶対悪と見なしたり、処罰感情を寛容さで克服しようとしたりする観念的な死刑反対論とは一線を画している。

応報論や冤罪で判断してよいのか

もっとも、萱野の見解に批判の余地がないわけではない。

本書では人々の処罰感情から検討を始めているが、死刑賛成論の根柢は応報論にあると自明視するに留まっているし、またカントの応報刑論そのものの妥当性にも特段の検討はなされていない。そのため、「死刑を存置すべきか否か」を問うはずが、いつの間にか処罰感情を立てたまま「どうしたら死刑を避けられるか」に話が置き換わってしまっている。

そもそも、死刑の存廃を考えるにあたって、被害者の感情とか、加害者の反省とか、冤罪のおそれとかをあげつらう前に、もっと検討すべきことがあるのではなかろうか。萱野を含めて死刑の是非を論ずる者たちに最も欠けているのは、刑罰がそもそも何のために存在するのかという視点である。これを考えるには国家の成り立ちそのものから振り返る必要があるのだが、悲しいかな、これに真正面から取り上げた見解はほとんどといっていいほど見当たらない。

とはいえ、そうした見解がまったくないわけではない。ただ今まで顧みられる機会がなかっただけである。一つめぼしいものとして、ショーペンハウアー(1788–1860)の明瞭な理論の要約を私のサイトで掲げておいたので、賛成派、反対派を問わず、この機会に是非一読されることを願うものである。


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