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自分の長所で天下人になり、それによっても滅んだ豊臣秀吉。

 人物の行いによってその後の運命が変わる、というのはリアルに自分自身の人生でも感じられるところ。歴史上の人物で、

ここをこうしておけば…

という事はいっぱいある。それについて今回は、秀吉を選びたいと思います。

 まず、秀吉の最大の長所は

洞察力

にあるといっても過言ではありません。

 彼の場合、当時の日本社会の価値観や考え方、行動パターンと言った人に対する理解が相当深かったことでしょう。そこが後世、

人たらし

と呼ばれる所以にもなったはずです。

 これは、人の心をつかむ過程である

相手を知り、その上で振る舞い、心をつかむ

というプロセスを経られたから。理論だけならこれだけのことですが、最初の二つが容易なことではない。ここが、秀吉をして天下人にたらしめた部分であったといえましょう。

 まず、彼は上司に対して基本的によく理解した上で

相手の行動パターンを先回りして

おく。それにより、相手が望んだ時には時間差がほとんどなくもたらされる。このパターンの話は、実話かどうかはオイトイテ

草履を暖めて差し出す

という有名なシーンにも集約されています。

 しかも、地位によってその振る舞いが変わっています。最初の頃はとにかく実績を見せる時。従って同僚の受けをかまう余裕はない。これは今でも同じですが、

下っ端の仕事内容だと、相当目立たないと注目が得られない

という事もあると思われます。

 要はこうした時期の場合、秀吉は実績作りに励んでいたともいえるでしょう。だから、一度は実績を認められながらも退職している。信長に仕えたのも、

仕事本位で見てくれる人

という洞察が働いていたはずです。

 これ以後は、秀吉の態度も変わってきます。同僚に対してもそう。前田利家など、自分と親しい人たちという人脈を作っていく。その中で

なるべくアンチを作らない

努力もしている。有名なエピソードとしても、

羽柴

という姓を作ったのも柴田と丹羽という二人の重役の顔を立ててのことですし。

 柴田勝家は秀吉のことを毛嫌いする姿勢は変わりませんでしたが、丹羽長秀は受け入れてくれた。こういう形で、孤立や対立を防いでいく。この辺の出世競争における遊泳術というモノは、現代でも充分に参考にできます。

 基本的に信長へ目を向けることが第一とは言え、周囲への気遣い・心遣いも大変なもの。信長本人にだけ良い顔をするのではなく、

秘書・家族・親族

にまでキチンと目を向けていく。誰が信長への影響力を保持しているのか、そうした人間洞察が深いからこそ、周囲への気遣いを忘れないでいる。

 秀吉が天下を取った後、織田家の係累から非難の声があまり上がらなかったのは秀吉が権力で封殺していたから、というだけではないでしょう。なぜならば、徳川家が天下を取った後、織田家の人間が積極的に秀吉を批判・非難していないからです。(あるにせよ、今に至るまで私はそうした資料を見たことがありません。)

 これは秀吉が在世時にも決して織田家をないがしろにしていなかった理由として、機能するでしょう。何よりキチンと保護している、というアピールの方が世間にも好感を持ってみられる、と計算していたハズ。途中、信長の次男信雄を改易したのも、単に領地が大きすぎたからでしょうしね。

 こうしたことからも、秀吉の振る舞いは人の心を充分に見抜いた上でのものが大半。これが、天下人に至れた最大の理由だと思うのです。一方、タイトルの短所となって返ってきてしまったのは…

それを的確に使えなくなった

からにほかなりません。

 天下人になり、自分の権力が確立されていく中で…そうした周囲への気遣いや配慮の必要性が薄れていった。言えばその通りにさせる力ができた。それが、むしろ秀吉の目をも狂わせてしまったのです。

 個人的にこのことがわかる最大の事件が

朝鮮出兵

なのです。

 私が対馬・宗氏の資料を読んだ時にこれが原因だろうな…と思ったことがそこには書かれていました。それが、

宗氏の朝鮮王朝との貿易の利害

です。

 宗氏は歴代、貿易を朝鮮王朝との間で行ってきていた。その経緯から考えれば、秀吉による直接的な侵略行為というのはこの貿易という利権をつぶす行為。よって、宗氏としてはどうにかして戦争を回避したかったはず。

 また、小西行長が同じように戦争を回避したがっていたのは元が商人だから。侵略戦争によって領地を占領する行為は、貿易による利潤を生業にしていた人たちからするとうまみがない訳です。

 こうした個々の思惑に対して、権力者として見る必要が無くなったため正しい情報をもたらされ、かつ判断するというプロセスが失われた。だから、彼らの利害の下にゆがんだ情報をもたらされても、それに気づける要素が秀吉には無くなっていた。これが、豊臣政権の致命傷へとつながっていきます。

 甥の秀次が非業の死を遂げたのも、現在では不可解なことが多いとされていますが…。これについても、場合によってはこうした情報が正しく伝わらなかった故の悲劇、である可能性もある訳です。こうしたことからも、天下人という権力者にまで行きついたことによる弊害を、身をもって受ける形になりました。

 秀頼に天下を継承させようという事に関しても、私は客観的に見て無理があったと感じています。以前の記事で書いてますが、

朝鮮出兵によるマイナス要素と代替わりが重なっていた

からです。中国においてもそうですが、長い兵乱の後は巨大事業を起こすリスクは相当高い。それに思いっきり該当していたのですから。

 非常に残念なのは彼自身が天下を取った要素を、こうして見失ってしまったこと。秀吉が離さなかった

真実を常にしっかりとつかみ続ける

という要素。そしてそれがあっての判断・行動。晩年の秀吉は耄碌したというよりも、これを手放してしまったことによって天下を失ったと私は思えてならないのですよね…。

いぢょー。


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