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アダルト・チャイルドという病気について 〜 回復への第一歩を踏み出すために

ACの告白

私はACという、心の病気です。ACとは,「アダルト・チャイルド」の頭字語です。ACの人たちは、生育環境において心が歪んだまま成人した人たちのことで、これが原因しまともな生活を送ることができません。ほとんどの場合,「機能不全家族」または「機能不全家庭」のなかで生育し成人しています。

「機能不全家族」の定義について、精神療法家の西尾和美さんは、そのご著書『心の傷を癒すカウンセリング366日』(講談社;1998年)のなかで、次の通り(実に分かりやすく)ご説明くださっています。

幅広い依存症、たとえばアルコール、薬物、ギャンブル、摂食障害、非行、暴力、セックス、買い物、仕事、人間関係にのめり込んで、取りつかれてしまった人がいた家族、また、両親の仲が悪く、常に喧嘩が絶えなかったり、冷戦状態であったり、浮気があったり、祖父母と両親との仲が悪かったり、よく怒りが爆発したり、性的・身体的・精神的な虐待や、放置があったり、しつけが必要以上に厳しかったり、人格を否定されるようなことを言われたり、他人や兄弟姉妹といつも比べられたり、あれこれコントロールされ批判されたり、期待が大きすぎて、何をやっても期待にそえなかったり、お人形やプロジェクトとして育てられたり、お金、いい会社、いい学校だけが重視されたり、他人の目を気にして外面だけ良かったり、あまりにも多く秘密があったり、何を言っても聞いてもらえなかったり、受け入れてもらえなかったり、親の不満やグチをいつも聞かされたり、みにくい離婚があったり、家族の誰かがいつも病気がちだったり、親が不在だったり、いつも裁判ごとや刑事事件が起こっていたり、親が外の人には優しいのに、家族にはつっけんどんだったり、身体や顔かたちについてからかわれたり、親と子の関係が逆になっていたり、窒息するほど溺愛されたり、見棄てられ不安にかられたり、愛のない、冷たい安全性のない家族などです。 (pp.7-8)

私は幼い頃、ずっと怒られて育ってきたので、不必要な罪の意識を、平時から抱いています。人と接するときはいつも、恐れ、があります。その恐れを隠すために、私はどんなこともしますし、また、してきました。

このとき、自分の意思は関係しません。意思はずっと押さえ込まれてきたものなので、自分が嫌なことをしていることに、自分でもしばしば気が付かないのです。それゆえ、自分の好きなものが何であるかが分からない、ということがよくあります。例えば、服の好みや食べ物のそれです。

人と交流するとか近しくなるということも、私には実に難しいことです:本当の自分がどのようであるかが分かっていないからです。例えば、人とふざけ合うということも、私にはよく分かりません。人を朝に日に恐れているので、ふざけることができないのです。私にとり、相手を怒らせないことが最も大事なことだ、と深層心理において認識されているのでしょう。

人とどんなに親しくなっても、心のなかでは「やっぱりこの人は/も、本当の私を分かってない」と感じてしまいます。

私自身がACと自覚を抱くようになったのは、ある恋愛経験からでした。ある人から、好き、と告白され始まった恋愛関係でしたが、間もない頃に、私が急に甘え出し異様なほど距離を縮めすぎたり、自分の期待に応えられていないと僅かでも感じれば急につっぱねてみたり……ほぼずっと、関係は不安定でした。

自分でもよく説明できませんが、どうしてか、自分が今ちゃんと好かれているか、愛されているか、ものすごく不安になってくるのです、それも前触れなく俄に、です。おそらく、十分に愛を受けて育ってこなかったので、じょうびったり愛に飢えて仕方ないのでしょう。そこには確然として、感情をコントロールできない自分がいました。仕舞には相手から、そんな人とは思わなかった、などといわれました。

ただ実は、相手にもACの傾向があったので、そのときは大変なことが起こりました。もう思い出したくないので、これ以上は述べませんが、この出来事が、私の人としての”異常さ”を自認する出来事となりました。一般にACの人たちは、恋愛が上手にできない、という場合が少なくありません。

ACへの妥当な理解

ACの人たちは、不適切に愛され成人したので、人の適切な愛し方が分かりません。(例えば私のように、不適切に — 相手を困惑させ、不安を与え、いつ何が起こるか分からないというような怯えを抱かせるように — 人を愛することならできます。)これはつまり、先述した「人と交流するとか近しくなるということも、私には実に難しい」ということであり、人との適切な距離感をつかむことが苦手だということです。それ故、これは連鎖します。ACの人たちが幸いに人の親になったとしても、不幸にもACという人間的傾向は、子へと連鎖していってしまうのです。ACの親が育てた子も、大抵はACを背負わされます。

ACとは、病的な孤独です。それは、適切に愛されてこなかったことに因ります。誰も分かってくれない、という絶望感にいつも苛まれています。非ACの人たちは, ACの人たちの歪な心を理解するのに窮します。

ただし、同じACの人たちのあいだでは、激しい引力で絶望が希望に変ずることがあります:相手が孤独の苦悩を共有できる無類の存在に映って、互いに求め合い、また惹きつけ合うのです。この状態は共依存と呼ばれますが、望ましいものではありません。共依存の人間関係は、決して心の創傷を癒したり、ましてや幸福へ進展したりすることはありません。なぜなら、自分の胸中の空洞を相手の胸中の空洞で埋めようとすることに他ならないからです。これは、一般的な精神疾患においても同様でしょう — うつ病やパーソナリティ障害の人同士がくっ付いても、病からの回復などにはつながりません。むしろ、多くの場合において、従来より悪い結果を誘引します。

それから,「空気」を重んずる精神文化のため、日本人にはACが多く見られるとする向きもあります。ACの人たちは、自分の感情を表出すれば不都合が引き起こされることが、体に染み付いているので、自分の意思を表現することが苦手です。むしろ、他人の意思を余計なほどに読み取ろうとしてしまうし、且つそれに長けています。ACの人たちは、怒っている人や権威のある人に頗る弱く、そうした人たちを絶対視しがちなのです。

ACへの私的な向き合い方

そんなACの私ですが、最近ACの自助グループに通い始めました。自助グループとは、当事者同士が集まって、日頃の苦悩を吐露し合う会合のことです。

AC同士の関係についての懸念(共依存的な発展など)から、自助グループは正当で且つ伝統的な規律に基づいて運営されています。また、スピリチュアリティーを重んじる精神に根ざしてもいます。詳しい話は規律により伝えることができませんが、私は週に一回ほどのペースで通っています。

ACの仲間と共に, ACからの回復への道のりを刻下歩み始めています。その道のりは、とても険しく厳しいです:自分に罪はないということを全的に認めつつ、自分を、そして自分が傷つけてきた人たちと、自己の内面において、向き合っていかなければならないからです。これはACの人たちにとって、至極困難なことです。

ACからの回復の第一歩

ACの人たちにとって期待できるのは、回復した人たちがいることです。現に私の通う自助グループでは、回復し幸せな人生を送り出した人がサポートをしてくれています。

ACからの回復には、先達による伝統のなかで培われてきたメソッドがあります。これは確立されていて、回復した人たちによりその正当性が保証されています。

あるACの仲間は, 回復の第一歩は「バンジージャンプのよう」だと云います:最初に、道のりへと踏み出す覚悟と勇気が要るからです。

しかし、それは十分信頼に足る道のりです。確かに、険しいです、しかしながら, ACの誰にも開かれた、公平な道のりです。

私は自分がACだと認め、回復のメソッドに取り組み始めてみると、自分の未来に確かな希望を見出せるようになりました。回復の第一歩は、自分を見詰め直すことです。

私はここに、自画像を描きました……このことは、私に自分を見詰め直す準備が整った、という気を起こさせてくれているのです。了

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