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ボクたちが求める飲食店はデザインでしょうか?アートでしょうか?

在り方としての矜持を野暮天かも知れないが残したい。王子駅徒歩1分にある立ち飲み屋「平澤かまぼこ」で僕はそう思った。ここに来たのは初めてだ。練り物屋が経営する立ち飲み屋である。BGMはない。黙々と一人で昼酒とアテを愉しむ。まずは赤星で喉を潤し、手取りはんぺんと厚揚げを。美味い。からしを塗りたくってもう一口。

今度は日本酒の冷に切り替えて蒲鉾を口に運ぶ。今までの蒲鉾はなんだったんだってくらい美味い。鮫が違うのか?甘さに交じるほのかな酸味がわさび醤油に映える。そして、煮こごり。これも自家製。口の中で溶ける、というより染み渡っていく。化学的な保存技術を一切感じない旨さ。親父が好きだったなぁと亡き人を回顧して、さらに酒がすすむ。

蒲鉾、煮こごり、そして、チキンカレー。全部美味い。

最後はチキンカレーだ。友人の投稿で確認していて今日はこれを食べに来たと言っても過言ではない。米はつかず、アテとしてのチキンカレー。大衆酒場のカレーというのが稀にある。働いているネパール人青年のレコメンドだと思うが、焦げたジーラ(クミン)にじゃがいもとチキンの構成。ターメリックも強めでいい。日本の大衆文化に、こういった変化があることを僕は歓迎する。賛否あるだろうが、この変化をユニークとして受け止める度量を僕は持っていたい。単純に面白いし、異文化への寛容さは今日の日本に必要だ。

さて、在り方の話だった。2020年代入ってからの食の楽しみ方の話をしたい。今って以下のようなマトリクスではないかと僕は捉えている。

市場分析ではない。楽しみ方の分布の方が近い。

僕はカレーの人なので、総合的な食文化の分類について造詣の深い人がいるならばこの図に修正を加えてもらって一向にかまわない。が、情緒性のemotionalには注目してほしい。食はSNSによって「食べる」「見る」に加え「感じる」が可視化した。シズルだけでなくノスタルジーまでが食に期待されている。エモさは無視できない。食への動員はB級グルメが流行した時代にも言われたが、その頃とは次元が違うのだ。

これだけ聞くと食文化をないがしろにしているような悲しい印象を受けるかもしれないが、その実は違うだろう。もちろんSNSの撮影後に食べ物を粗末にするような畜生は論外だが、楽しみ方が拡張し、そこには新しい文化が生まれていると考えた方が正しい。特に「情緒性とLOCALの重なり」だ。ここが肝要。ここで言うLOCALはジモトだ。必ずしも地方とは限らない。都心でも地方でもないジモトで変わらず流動していないもの。そこで世代を超えた楽しみ方が増えている。大衆酒場や、町中華、純喫茶の人気はもちろん、そこからもう一歩踏み込んだシーンがあった。

それは東京が中心ではない

CITYからは生まれない価値がLOCALからは芽吹いている。それを知ったきっかけは「ニコアンドのカレーフェス」という仕事だった。アダストリア社が仕掛けるポップアップイベントで、カレーに関わる全国のプロダクトをアパレルグッズに限らず全国7都市で販売するという挑戦的な企画だった。これだけ聞くと意味がわからないかもしれないが、世のカレーに熱狂した人々(店舗、個人含む)は変人が多いのでカレー以外に色んなものを作る。Tシャツ作ったり、レコード作ったり、ZIN作ったり、スパイス入浴剤作ったりだ。要をそれらを一同に介してお祭りにしてしまおうという内容だった。

2ヶ月のロングランを達成した。沢山の反応があり満足いく結果に終わったが超大変だった。

僕はプロデューサー・キュレーターとして沢山の店舗と関わったのだが、その中でも、カレーシーンにはあまり登場しない2つの店舗の印象が強かった。グリーンカレーを置かず、多様なタイのゲーン(汁の意味)の世界をわかりやすく、合わせてタイのポップカルチャーを体現するタイカレー食堂ヤンガオ(名古屋:浄心)と、台風が通る国の料理をテーマにタイ・台湾・沖縄などの南国料理を提供する台風飯店(大阪:谷町六丁目)だ。後者を手掛ける株式会社FERは、自分達世代の大衆酒場を作りたいという思いから「大衆食堂スタンドそのだ」を手掛けたことでも有名で、昨年は心斎橋PARCO出店、東京五反田にもフランチャイズ出店を果たしている。

2店ともすごい人気だった。共通しているのは自分達が好きでやまないものをキッチュなフレームワークで再構築している点だ。ここで言うキッチュとは、古めかしさや、一見価値がわかりにくいものを、かわいく愛しいものに変えていく、そんなクリエイティブを指して言っている。

谷町六丁目の台風飯店。

そして、この仕事をきっかけに、彼らのまわりには、同じ価値観をもった飲食店が、多様なジャンルで集まっていることを知る。餃子、ラーメン、ハンバーガーなどなどの店がむちゃくちゃかっこいいプロダクトを作っていて、飲食店同士のコラボや音楽イベントまで行っていた。DJと料理担当が同じプライオリティでクレジットに載っているのが冷静に考えるとすごくおかしい。イベントはクラブ開催もあれば、店内にDJブースを出して即席でスタートみたいなこともあるようで、HIPHOPの萌芽となったブロック・パーティーを思い起こさせた。そのクリエティビティは、やっぱりキッチュな感じですごくいい。

コロナで東京からは全然行けなかったので、2020年以前もあるがイベントの様子。食と音楽を楽しんだり、それがきっかけポップアップしたりと、こういう催しが全国的に増えいてる。

ここでさらに注目すべきは、この多くが地方のLOCAL(ジモト)から発信されている点だ。東京にもあるが全然主軸じゃない。この現象が僕には衝撃的だった。日本各地で飲食店が主体になったイベントがあってLOCAL(ジモト)間の交流も活発になっている。所感では名古屋から西側が活発な印象だ。

過去にもカレーで言えば、口癖はカレーや、東京カリ〜番長!など近い観念でイベントはあったが、それは都心だからできたオーガナイズだったと思う。この流れは増加したフェス文化に起因するところだと思うが、LOCALからカウンターカルチャーのように飲食店の在り方が拡張している。

今から「店を作る」はアートだと思う

ここで冒頭に戻る。なぜこういったことを書こうとしたことが野暮天か。それは元来、アンダーグラウンドに属するカルチャーを公的に紹介すること自体に抵抗があるからだ。わかる奴だけわかればいいという世界はある。それは間違ってはいない。

しかし、メディア乱立の現代ではアンダーグラウンドとオーバーグラウンドを行き来する横断的な姿勢も必要になってきていると思う。だから、これから出てくるであろう悪気のないモノマネには、釘を打っておきたいと思ったのだ。

こんなネオン看板イメージの店が増えたと感じる。

簡単にいうと「売れそうだから」という理由で既述したキッチュ性を表面的にだけ似せてくる店舗が増えるだろうという話だ。ボリュームゾーンの年代を考えればマーケティング的にも間違っているんだが「ネオ大衆酒場」など一部ではそれらがもう既に散見している。しかもCITYで。(ちなみに直接聞いたけど、この造語をFER代表園田さんは嫌がってた)

この現象自体は自由競争の世界なので、丸パクリでなければ止めようがないのは確かだ。だが、本文の冒頭にある「平澤かまぼこ」みたいなLOCAL店へのリスペクトがあった上で、キッチュ性というのは成り立っていることを声を大にして言いたい。決して若者に迎合しているのではなく、自己解釈を表現しているのだ。僕はこの流行ってるものに乗るみたいな発想の貧困さは、デザインとアートの違いのような誤読がここで起きているからじゃないだろうかと思っている。

同じ自転車でもデザインとアートは違う。
※ART出典はKOICHIRO AZUMA[廻転する不在 越後妻有の場合]より引用。
https://koichiro-azuma.com/

デザインは日本では「装飾」という意味合いが強く翻訳されて伝来してしまったが、本来は「設計する、計画する」が正しい。デザイナー原研哉さんの著書に詳しいが、何のために計画するか、であるから、それはつまり「問題を解決する」という目的があるものがデザインなのだ。対してアートとは自己から始まるものだ。デザインの同じく社会に対して影響も与えるが、その目的は解決ではなく表現だ。アーティストは表現でメシを食っている。

僕はコンビニ、ファストフード、スターバックスのような存在はデザインだと思う、それはそれでいい。が、いろんなものが飽和した現代で敢えて飲食店を作るということ、それはアートだと思う。アートであるべきところを、装飾の意味でしか理解していないデザインで店を作るから薄っぺらくなる。

だから、これからお店を立ち上げたいと思う人は文脈(コンテクスト)のある表現をお店に落とし込んで欲しい。表面的な装飾としてのデザインは飽きが来る。何を表現したいのかという哲学が無いものはとても薄味で、通う気になれないのだ。お店での食体験を、僕達はポップアートのように楽しんだり、民藝のように楽しんだりしたい。

最後にそういったアイデアを持つための参考図書を。パクリとアイディアの違いについて。広告業界の先輩三人くらいに進められたことがあるので名著だと思う。知らんけど。


サポートしていただいたお金は、全てカレーの中に溶けていって、世界中に幸せが駆け巡ることでしょう。