薬物と映画③

さて、連載三回目はインド。インドは1990年以降の経済開放により、順調に所得を増やしてきた南アジアの大国。この国より東側のアジア諸国における厳しいドラッグ規制に鑑みればかなり寛容と見える国ですが、今や繁栄する巨象となったインド映画では、どう出てくるかしら。

「8マイル」のインド版、「Gully Boy」(2019年)という映画から。お話はヒップホップに自分の未来を見出す貧しい若者の青春を描く映画なんだけどね、今年10月に日本公開が決定したので是非見ていただきたい。¥インド映画を敬遠する人でも楽しめる作りになってるし、ラストシーンにはインド映画らしさも感じられる。主演は今をときめくスーパースター、ランヴィール・シン。ヒップホップの消費は、経済成長する社会で生きる若者たちにとって一種の憧れなのだ。他方で、インドでは所謂伝統音楽も非常に人気がある。主役の若者が自分の街にいたくなくて、イヤホンでヒップホップを聴くシーンは印象的。それによって街に流れる伝統音楽を排除しようとするんだよね。そして父親によってだったかな、イヤホン外される。本作の中では若者たちが大麻を吸っており、主人公の友人は、スラムで孤児たちを使って大麻を売っている。その若者は、子供に大麻売りをさせているが虐待しているわけではなく、それで子供たちが生活できるようにさせているのだ、という描写がなかなか痛々しい。そして、後に述べる「パンジャブ・ハイ」や「Simmba」と比較すると、インドでは、大麻への抵抗感が低いが、いいことではないと認識している感じが分かる。ムスリムはお酒が飲めないのもあって、インド(ハイデラバード)には飲み屋が全然見当たらなかった。男たちはカフェでチャイを飲むんだね。女はいない。そんなところに出入りする女はふしだらだと思われるのだろう。


さて、インド初のロメロ型ゾンビ映画「インド・オブ・ザ・デッド」(2013年)では、ゴアという観光地で、こちらはコカインではなく何かの覚せい剤で人々がゾンビになるというお話(同じネタはアメリカ映画「バタリアン5」(2005年)やカナダ映画「インサニティ」(2016年)にも見られる。「インサニティ」はコカインと間違って吸入したウイルスという設定らしく、カナダホラーらしい皮肉が感じられる)。
「インド…」の主人公たちはムンバイのサラリーマンで、大麻をたしなみ、欧米人のなりそこないのような振る舞いをしている。そんな彼らがゴアで羽目を外そうとするわけだが、ゴアで美女たち(欧米人)と一緒にパーティをするというイメージが少なくとも中間層の人々の射程範囲内に来ているということも示している。その中で登場人物の台詞にはっとさせられた。ゾンビ大量発生を目にした人物が「インドでゾンビなんて!」と言ったら「グローバル化だよ!」と言われる。おクスリの流通はグローバル化抜きに考えることができないということを意図せず言い当てているシーンで思わず膝を打った。


「Simmba」(2018年)では、ゴアのギャング紛いの実力者が子供を使ってコカイン販売をやっているという描写があった。ゴアが実際そうかどうかは置いておいて、その場所イメージが大変重要と思った。つまり、インドの観客に対して、コカインの浸透は感知しているが、まだ限定的で、遠い観光地のことだと描いているわけね。主演は「Gully Boy」のランヴィール・シン。シン様はこの映画ではいやーな腐敗警察官を演じている。冒頭から、気の毒な生い立ちだけど最低の男だな、と分かるような歌と踊りシーンから始まるんだね。この俳優さん、ハンサムなんだけど顔が軽薄なので全然いい人に見えない。自分の持ち味が悪役向きだと分かっているし、悪役かチャラ男役が多い。でも、どうしようもない最低男がどうやってヒーローになるか、と観ていくと、社会派の物語であることが分かる。彼は最後、美女を手にしない。これはちょっと意外だった。


「リクシャー」(2016年)ではヘロインか覚せい剤の売人が少しだけ出て来る。もちろん貧困層向け。この映画観てから他の作品を観たので驚いたね。同作を作品として観ると、今風のYoutuberよろしく夜の街を撮影するムンバイの若造たちに、田舎…というかビハール州出身の貧しい男の狂気が襲い掛かる。つまり、グローバル化した欧米かぶれ現象=繁栄に対する、貧困層からの反発としても読めるので大変興味深い。タミル映画の「ピザ!」でも同じテーマが出ている。


「パンジャブ・ハイ」(2016年)という映画も重たい。アメリカ映画「トラフィック」のインド版のようなんだけど、金持ちはコカイン、貧乏人はヘロイン(覚せい剤か?)、というように、階層による使用ドラッグの違いと、ドラッグをどのように体験するのかが鋭く対比されている。ドラッグの種類も知らなかった少女がシャブ中の性奴隷にされ、警察ぐるみのドラッグ売買に加担する警官の弟はドラッグ中毒、地元の女医は必至で中毒患者を治そうとする。パンジャブ州という、世界地理では5つの川の流れる豊かな穀倉地帯として習った大地のドラッグ問題は凄みがあった。緑の革命を経ても尚、農業が人の手によって担われている状況も見えた。主演のシャーヒド・カプールがマジで頭おかしいんじゃねえかという目をするので怖い。金持ちは道楽でコカインをやるのだが、それを見た貧しい子供たちは勝手に憧れを持って安いドラッグでどんどん壊されていく。ラストシーンは、何とゴアで終る。偶然なのだろうけど、上記2作品におけるゴアの意味合いを考えると皮肉としか言いようがない。ある意味でゴアはインドであってインドではないんだろう。


映画の描写を全て信じるべきではないので、ちょっと後退して、もし仮に「インドでは、ドラッグのことを取り上げることが娯楽として人気がある」という状況を物語っているのだとしたらどうだろう。欧米の先進国は既にそんな状況になっているけどね。インドもそうなのかな。私はちょっと違うと思う。日本映画で、20代の若者がコカインを吸引するシーンがほとんど無いのは、本当にそういう状況が身近に無いからでしょう。ニュースで読む限り、日本でコカインを売っているのは、海外の組織のように思われる。日本の暴力団は弱体化したこともあってその業界に参入できていないのではあるまいか。日本の経済的没落とグローバル化が完成するとき、恐らくだがコカインが頻繁に映画に出てくるようになるだろう。そんな日本になってもらったら困るんだけど、もう近づいているんだよね。欲してる人がいる以上は。
グローバル化という神の化身であるコカインが周辺に蔓延しているという状況は不健康なのだとインドの映画人は分かっているような気がする。もしハリウッドのように、コカインの怖さを描くことを止めてしまう時が来たら、それはインドの映画人もまたヤク中になってしまったという意味なのだと思う。


今考えたら、ヒロポン非合法になった以降でも、日本映画ではシャブ中毒の人がしばしば見られた。ということは、日本の映画界も推して知るべし、だよね。

とりあえず、ドラッグを巡る映画の旅はここで終り。本来であれば没落を早く体験したイギリス社会が生んだ「トレイン・スポッティング」も観るべきなのだが、ちょっとつらそうなので観ていない。アメリカの「パルプフィクション」と併せてドラッグ体験を「楽しい」と描いてしまったある種のパンドラの箱映画なのだと思う。

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