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竹美映画評32 尊さを知る人々は赤土の道を一人で進む  『タゴール・ソングス』(日本、バングラデシュ、インド、2020年)

仮設の映画館という企画により、自宅で配信で観た。

インドが独立するのを見る前にこの世を去ったベンガルの風変わりおじさん、ラビンドラナート・タゴールの遺した沢山の言葉が、現代のベンガル人の中で生き続けている様を伝えるドキュメンタリー映画。変わらない社会と変わりゆく個人は時に衝突し、人は悩む。立ち止まって歩けなくなったそのとき、百年前の変なおじさんのよく分からない言葉が暗闇で立ち止まる人に光を投げかけ、光を浴びて人はまた歩き出す。

神様が割と本気で信じられている社会において、アカシックレコード的なものと繋がってしまったに違いないタゴールの言葉は、正直よく分からない。歌詞を追っていても、歩いていて突然違う道に入ってしまったような、何を言いたいのか分からない。この、分からない、という感覚は、教典としてありがたがる態度とも違って、謙虚になるということなのかもしれないね。

インドというレイヤーの下に「ベンガル人」というレイヤーが存在するということをはっきり示す映画でもある。タゴールやサタジット・レイ、更にはグラミーン銀行の取り組みや、アマルティア・センのような、西洋文化を十二分に吸収した上でインドを再び振り返る知性が生まれている。首都が長らくカルカッタにあったイギリス植民地時代の名残なのだと聞く。最近の映画『ガンジスに還る』(/2016年)のシュバシシュ・ブティアニ監督もベンガル人で、アメリカ滞在から戻ってきた者の目を以て自分の文化を見直している。

作中の「一人で進め」と教えている歌はかなり分かりやすい方だと思う。タゴールはあの歌詞をただただ、大義のために立ち上がる人々の気概を感じ取って書いたのではないか。そのタゴールの感じた何かは、彼の言葉を媒介にしてその後の人々の心に話しかけ、頭の中のドアにかかった鍵を開かせ、それぞれの生き方を再考させる。言葉の受け取り手は、必要なときに、好きに解釈していいのだ。ベンガルの人々はそれを分かっているように見える。

百年後の誰かが自分の言葉を読んでくれるとしたらどうか?と想像した詩もいい。自分みたいな変な人がいつか、自分の言葉を読んで、自分の心に起きたことを分かってくれたら…と願うほどに、詩人=変なおじさんの人生は浮世離れしていたであろう。タゴールのことは一切知らないが、本人は自覚していたと思う。

同作でも、タゴールの歌の先生、オミタージソルカルさんは、既にそんな浮世離れコースに片足突っ込んでいるようだ。若い時に革命家を志したという辺り、日本の戦後左翼人的な、大義に人生を生きられてしまったタイプの世捨て人感がある。

話は飛ぶが、韓国映画『風の丘を越えて』(イムグォンテク監督、1993年)を思い出した。

※韓国古典映画というYouTubeチャンネルがありがたいことに90年代までの韓国映画を英語字幕付きで(神だ)解放しています。『将軍の息子』を見て嬉しかったのでそのうち書くよ。

韓国では伝統文化とは言え極めて地位の低かったパンソリという歌の道を叩き込む父、歌の道に進むほか無かった才能豊かな姉ソンファ、耐えきれず逃げ出した弟ドンホの物語。ソルカル先生は、芸の道に人生捧げてしまったあの父親と重なるし、プリタという若い女の弟子は、あの映画のソンファなのかもしれない。プリタさんは作品の中で自分の言葉を一切語らなかった。先生にとって彼女は器なのだと思う。ソルカル先生のように、その境地に達したヒトは、それが「道」のためなら非道なこともやるだろう。そして道を教えられ、授けられた者が本物なのであれば、その道を一人進んでゆくしかないのだ。『風の丘を越えて』のラストシーンも、ソンファが背を向けて一人、道を当てどもなく進んでいく姿で終わるが、ソルカル先生が一人歩くシーンとも重なった。

そう考えると、赤土の道を歩み出したらもう帰ることは叶わず、ただ歩むだけなのだと、自分の使命を悟ってしまった人の寂しさみたいなものを感じる。本作の監督もおそらくそうなのではあるまいか。

若い大学生の女の子の話も面白かった。彼女は恋愛に人生に悩み、外の世界を知りたいと願っている。「変化というのはゆっくりとやって来るんだよ」と言う父親に、「一人で進めとタゴールだって言っているわ」と反論する。どちらも真理がある。若者は、家から出て行く鍵を手にしたなら、赤土の道を一人で進む他は無く、その若造を取り巻く世界は、ゆっくりとしか変わって行かない。

インドや中国のように、歴史と文化が異様に深くて長く、国土もデカくて人口の多い社会に生まれると、人間には「尊い」「すごい」ものを手放しで喜ぶ感覚が生まれるらしい。その大国特有のセンスが、沢山の悲惨ととてつもなく尊いものを裏表の関係のように生み出し続けるのだと思う。彼らにとっては、100年も前、ではなくて、たった100年前、なのだ。

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