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「ヘルパーのなつめさんです」

「ヘルパーのなつめさんです」と、紹介された。
えっ?と思って、私を紹介したヘルパー事業所ULTRAのチーフ、ユーイチさんを見たが、平然としている。

2024年4月のことだ。これまでずっと、バックオフィスとして働いてきた私だが、志願してこの4月からレッツのヘルパー事業所「ULTRA」のスタッフに異動し、初めてヘルパーとして高橋舞さんの支援に入った初日だった。

「ヘルパーのなつめさんです」。紹介された舞さんも、神妙な面持ちで聞いている。
しかし、なにかがおかしくない?

高橋舞さんとは、もう12年もの付き合いだ。ほぼ毎日顔を合わせてきたし、楽しくて苦しくて人間くさい彼女には多くのことを教えてもらってきた。
「なつめさん」と彼女は私のことを認識しているが、これまでその「なつめさん」には肩書はなかったと思う。ただの「なつめさん」だ。ではいったい「ヘルパーのなつめさん」とただの「なつめさん」の違いは何なんだろう?

ふだん、日中支援が終わったあとは、舞さんはすべての彼女の荷物を持って3階にある彼女のシェアハウスの部屋に帰る。ヘルパーは日中支援の後から翌朝までをリレー方式で付き添い、彼女をサポートするのが仕事だ。

舞さんは日中に飲んだ空のペットボトルや、彼女のお気に入りのものが入った袋など、シェアハウスに持って帰る荷物がとても多く、この日も舞さんの荷物はたくさんあった。すると彼女は荷物を私に差し出しこう言った。

「持って」。

そういう彼女自身は詰め物をする「カップ」と呼ばれるプラスチックの保存容器とリュックしか持っていない。荷物はまだ相当持てるし、ゴミはいまここで捨てることができる。

もしこれがヘルパーでない時の私だったら、「自分で持ったら?」とか「ペットボトルはここに捨てていこう」とか言うだろう。しかし、「ヘルパーのなつめさん」はこの要求をどう捉えたらいいのだろうか??ヘルパーたるもの、本人の「手足」となって働くのが仕事であるとされているから、彼女の要求であれば荷物は持つべきなのだろうか??(注:健常者が障害者の「手足」となって動くことは「手足論」と言われ、議論がある)

もやもやしながらも、なんだか自分の信条(普段はないが突然生じた)に反する気がして「自分で持って」と言った。まだ「ヘルパーのなつめさん」になりきれない、ただの「なつめさん」である。

そんな初日を体験した後、しばらくシェアハウスでヘルパー研修をしていくと、他のヘルパーの方々がいかに「ヘルパーの〇〇さん」としていろいろ気遣って仕事をしているかわかってきた。

日中の支援ではほとんど問題にされない利用者が、ヘルパーにかかると「床に座ったまま空を見つめて口を半開きにしているが、水の過剰摂取ではないだろうか、それともこうだろうか」と議論されるし、入浴時にすぐ浴槽から上がってしまう利用者には、いかに浴槽に長く入って温まってもらうか、ヘルパーそれぞれに独自の工夫を凝らしている。どの利用者に対しても、入浴後は全身隅々まできちんと見て新しくできた傷がないか確認しているし、もし傷やあざが発見されたら傷の由来を方々に確かめていて、本当に細やかで、きっちりしている。

あるとき私も何かしなきゃ、と洗濯物を取り込んで畳んでいたら、「〇〇さんの洗濯物に手を出さないでください」と担当ヘルパーに注意された。支援の流れで最適な洗濯物の回収のタイミングがある上に、私が乾いていると思った洗濯物の乾きレベルが利用者本人には受け入れられないレベルで、もっと乾かさなければいけないのだという。

こんな風にいろいろと細かく段取りしているかと思えば、自分が担当している利用者がいかに愛すべき行動をしたかとか、いかに大変な状況に陥ったかという話をお互い話すことも多い。リビングでくつろぐたけしさんが、毛布に顔を突っ込んで「モフモフ」をしている至福の表情のことや、舞さんがいつもはパニックを起こす場面でこんなに堪えることができたとか、あのピンチこのピンチについてとか、ちょっとした雑談時間には話に花が咲く。楽しそうだ。

あれ、この感じ何かに似ている。
なんだっけ?

そうだ、私の子どもが生まれてから通っていた「親子サロン」の感じだ。
赤ちゃんと過ごしていると、外の世界との交わりがなくなるし、子育てを共にする他の親とも仲良くなりたいと思って出かけた、ママたちの交流サロンである。(当時パパたちはいなかったが今はどうなんだろう。)

子どもがあんなことした、こんなことができるようになったとか、子どもの夜泣きが大変でとか、夫の協力体制がないとかいろんな話をする。そんな話をしていると、孤立しないし、楽しい。

「うちの子はぐずっていても30分ドライブすると寝る」「たけしさんは歌を歌っていれば湯船に長く浸かれる」というような、関わりの「型」を作っていくのも似ている。親たちも、ヘルパーたちの場合も、様々な経験の中からそれぞれに対処方法を編み出している。

ただ、「親子サロン」に行くようになって、最初はいろいろな親子がいることが新鮮だったし、子育ての不安を和らげることもできて良かったのだが、半年ぐらいすると、空気が辛くて行けなくなった。
話題が子どものことに限定されているのに違和感があった。

もちろん、情報を交換したり、愚痴を言い合える場があることはとても貴重で、こういう場ができるだけ多くできて、誰もが気軽に行けることはすごく大事だ。

しかし、私にとっては「自分」はどこに置いてきてしまったのだろう?という気持ちになってしまう場だった。誰もが母や父である前に、ひとりの人であると思ったし、縁あって出会ったならその人自身にも出会いたかった。
それで長く続けることができなかった。

ヘルパーたちの会話が親子サロンに似ていることを発見して、私は大丈夫なのだろうか??と心配になったので、さっそくチーフのユーイチさんに話してみたら、「大丈夫、こないだもお互いの好きな音楽のこととか話してましたよ」と教えてくれた。よかった、単に私がまだ経験が浅いから、そういう穏やかな時間がもっとあるのだということに気づいていなかっただけだったみたいだ。

いやまてよ、そもそもヘルパーは子育てと違ってお仕事なので、穏やかな時間にも給料が発生している。「ヘルパーの〇〇さん」である以上、「自分」は置いてくるほうがいいのかも?そうだ、その時間は親子サロンと違って「私人」ではない。

――のだろうか。

ヘルパーのスタッフは実はみんな超個性的な人たちで、それぞれ来歴も活動も独特ですごく面白い。しかしいっぽうで、生き方自体に大きな違いがあるし、支援のやり方などを巡ってぶつかりあい、ギスギスすることもある。そんな時にはやっぱり、「自分」という人間で話せる時間があったほうがいい気がする。いろいろ衝突することがあっても、その傷を修復できる柔軟さは何らかの方法で培われたほうがいい。

レッツのシェアハウスの場合、ヘルパーではないシェアメイトがそこをかき混ぜてくれて柔軟体操になるのがいいところだ。

それもいいし、そうだ、時おり、ヘルパーのひとりが飲み会を企画してくれている。どういうわけか、企画するたびに何らかのアクシデントが起こったり、参加者が集まらなかったりして開催中止になるのだが、次回こそは開催されるといいな。ヘルパー以外の人も入るとなおいい。

いまだに「ヘルパーのなつめさん」と「なつめさん」の間をさまよう一人として、みんなと話をしたいと思う。

シェアハウスBBQ、無事に開催されました

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