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【小説】昭和、渋谷で、恋をしたり 1-8.1

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天の川を渡ったら

1983年(昭和58年)6月 東京

 プラネタリウムで働き始めて2ヶ月が過ぎた頃。私は和美を連れ、バイト先であるプラネタリウムに、客として行くことになった。

 もともと和美は天体観測が好きなわけで、バイトを始めた頃からねだられていたのだが、気乗りせず、都合が悪いと言っては先延ばしにしていた。
 その気になればいつでも行けた。だが、それを先延ばしにした私がいて、それを不審に思う和美がいた。

 「バイト先にかわいい子でもいるの?」

 ある日、電話で言われたことがあった。
 落ち着いて司法試験の勉強に割く時間が持てるからだろう、バイトを始めたばかりの頃、和美は私がバイトの前日に寮に帰ることに賛成していた。

 しかし、バイトに没頭する姿を「なんか楽しそうだよね」と言うようになり、季節の移り変わりと共に、喜びにも疑いという厚い雲がかかるようになっていた。その一方で、私の心はひっそりと夏奈恵色に染まっていたのだ。

 私はいつも夏奈恵を探して、見つめていた。しかし、夏奈恵は星空を見あげるように、佐藤さんの横顔を追っていた。


 その佐藤さんは、私が写真を撮っていることを知ると、日本全国の観測スポットを教えてくれたり、海外の観測写真を見せてくれたりした。
 誰にでも嫌味なく親切にできる人だったので、その優しさは責めるべきものではなかったが、佐藤さんと話していると、私は子供をあやすように扱われている気がした。
 自分よりも大人の夏奈恵と、さらに大人の佐藤さん。
 戦う以前に同じ土俵に立つことすらできないことが情けなかった。

 和美と私は、同じ歳で同じ時に、期待と不安を抱えて東京までやってきた。そして大学で、サークルで、和美の部屋でほとんどの時間を一緒に過ごした。お互い知らないことは無いと思っていた。


 しかし、私は「天の川」を自ら渡り、和美の来れない場所へ足を踏み入れたのだ。和美がやってこないその場所、プラネタリウムに足を運ぶたび、「天の川」の川幅は広がった。広がるほどに、和美がいる対岸へ戻る煩わしさが増していた。

 それに和美の部屋で過ごさない不便さも、もう気にならなくなっていた。それでも和美と別れる決心ができずにいたのは、夏奈恵と付き合える自信が無かったからだ。自分勝手にもほどがあった。

 だから観念するように、和美の要望を受け渋谷のプラネタリウムへ出かけたのだ。


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▼ 6月の雨と女神の前髪

 「おう、デートかよ、羨ましいな」

 プラネタリウムに着くとすぐに先輩の山口さん(1-6に続き登場)と顔を合わせた。
 倦怠期にあったことをすでに話していた山口さんが、和美を上から下までなめるように見ていた。余計なおしゃべりは避けたくて、手短に紹介だけすると、そそくさと客席に向かった。


 山口さんと顔を合わせたことも気まずかったが、夏奈恵とはもっと顔を合わせたくなかった。だから夏奈恵を常に意識した。チケット売り場にいるのか、グッズ売り場にいるのか。もしかしたら休憩に入っているかも知れない。余計な推測に心が落ち着かない。

 そして上映が終わると一目散に出口に向かい、すれ違う従業員には「予定があるんで」と、逃げるように挨拶をバラまいて渋谷駅に向かったのだ。
 なんとか夏奈恵とは会わずに済んだ。しかしプラネタリウムを出ると、顔くらい見たかった気がした。となりには夏奈恵より15センチほど背が低い和美がいたのに、だ。

***

 その数日後、雨の夜だった。
 バイトを終え、重い足取りで渋谷駅へ向かっていた。足取りが重かったのは、和美の家に行く約束をしていたからだ。

 会いたいという気持ちではなく、会わなくちゃいけない気持ち。どうして会いに行くのかと聞かれたら、別れないために、だろう。

 会いたくないのに別れたくないという矛盾を抱えているしかないと思っていたし、そういう利己的な側面が自分にあったことに実は少し驚いてもいた。

 そんなわけで「和美の家に行く」と決意するように大きく息をついて歩いていた時だった。

「溝口さん」

その声に聞き覚えがあったのだが、トーンが違ったので半信半疑で振り返った。

「あ、なんだ、望月さん……」

「なんでそんなに驚くの?」

「いや、なんか声のトーンが違う感じで、望月さんじゃないかもって……」

「そんなに違った?」

「うん、ちょっと柔らかいというか……」

「失礼じゃない? いつも怒ってるみたいじゃない」

「そんなことはないけど……」

「そうよ、今日だって山口さんの手伝いで残ってあげてたんだから。山口さんは『夏奈恵ちゃんはオレの女神』って言ってたよ」

「えっ、そうなの?」

「はあ? 何考えてるの?」

 夏奈恵がリラックスして話しかけてくれることに慣れてなく、私は顔の作り方がわからなかった。きっと仕事中のような緊張した面持ちに映ったのだろう。夏奈恵は呆れていた。


 夏奈恵は朝のオープンから夕方までの勤務がメイン、私はお客さんが増える午後から閉館までの時間に勤務することが多かったので、こうして同じ時間に仕事を終えることは滅多になかった。たまにあっても、それが苦い思い出になっている。(1-6参照)

 ただ、この日は追い風を感じた。梅雨の長雨のおかげで自転車で来ていなかったので、夏奈恵と一緒に帰れることになったのだ。これは初めてのことだった。


 夏奈恵はこの頃、国立(くにたち)のアパートに住んでいた。渋谷からは井の頭線で吉祥寺まで行き、中央線に乗り換えるルートだ。和美の家がある荻窪に行くおかげで吉祥寺までの20分は一緒にいられると内心で喜んだ。

 すると幸運が重なった。井の頭線が人身事故の影響で止まっていたのだ。山手線に乗れば新宿を経由して帰れたのだが、いつもなら寮に帰る私に気をつかってくれたのか、夏奈恵はこう言ってくれたのだ。

 「時間つぶしにご飯でも食べてく?」

 この夜の追い風は、女神の前髪をそっと揺らしてくれた。


1-9へつづく
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