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Books, Life, Diversity #32

東京はふたたび緊急事態宣言ということで、書店や出版社の置かれた状況はどこまでも厳しくなっていきます。ですのでこの投稿も、まだ続けていこうと思います。

いうまでもなく厳しいのは書店や出版社だけではありません。ここで本という文化に拘るのは、他の何かと比べてそれが客観的に重要だからかということではなく、単純に私自身にできることなどたかがしれているのだから、まずは私にとってできることをする、というだけのことでしかありません。それは責任逃れではなく、むしろ何の力もない平凡な――要するにすべての人間がそうであるところの――ある一人の人間にとって、それ以上にこの世界に対して責任を負えるやりかたなどないのだし、それがいちばん難しく、かつそれで十分なのだと私は思っています。これはトルストイの『光あるうち光の中を歩め』に影響を受けたもので、私の基本的なスタンスとして生き方にも研究にも共通する信念です(『光あるうち』は15回目で紹介しています。ほんとうに素晴らしい本なので機会があればぜひ)。

それに、色々な考え方はあるでしょうが、靴は一足、ジーンズも一本しか持たず、食事は何も入れない素麺、塩のおにぎりだけで十分な私にとって、なけなしの稼ぎに占める率から言っても、本は生活必需品と言えます。いえ、そもそも何が生活必需品で何がそうでないかなど、誰だって他人に定義される謂れなどありません。だからそれが無くならないように、できることをするしかないのです。

もうひとつ、消費税の総額表示義務化にかんする問題もあります。これも、書店や出版社だけが大変なのではない、他の小売りも同じだという指摘は確かに正しい点があるのでしょう。どの業種だけが大変だとか、そういう議論はただただ分断を強化するだけです。けれどもやはりそれだけではなく、本には本独自の、私たちが生きる――いうまでもなくそれは頭だけで考える生ではなく、この社会における現実の生です――本質にかかわる問題もあります。消費税の総額表示義務化については出版社共和国の下平尾直氏による素晴らしい論考があるので、ぜひお読みください。

特に最後のほうに書かれている「たとえ不法であっても非合法であっても、出版すればいいのである。それが出版社だ」という言葉には凄味があります。出版社、編集者、書店、無論執筆者もデザイナーもそれ以外のすべても含め、そういった人びとの闘いのなかで本という文化が生みだされてきたのだし、所詮、法は人間の、生命の後にあるものです。そして本は人間が人間として生きることの根幹にあるものだと私は思います。

そして最後にデジタル化の問題もあります。書店が潰れても、紙の本がなくなっても、電子書籍があれば良いじゃないという立場もあるかもしれません。そこで紙の本という文化が消えるのであればそれは時代に取り残された遺物でしかなかったということだ、と。経済的合理性だけで考えるのであればそれでも良いでしょう。けれども、言うのも恥ずかしいことですが、本は情報ではありません。モノとしての質感と時間を持った、それぞれに固有の存在です。だからといって電子書籍はぜんぶ屑だとか無価値だとか文化には成りようのないものだとか、それもまた違います。たしかにいまの電子書籍であればそうかもしれません。何の魅力もないただのデータとお粗末なインターフェイス。だけれどもっと時代が経って、もしかするとデジタルではあっても、そこに固有の質感と時間が降り積もるかもしれない。そういうデバイスを人間は生み出すかもしれない。単なるデータでもなく、紙の本の不出来な模造品でもない、それ固有の形。

でも、いまはそうではない。だから本という文化が衰退してもデジタルで代替できるから良いでしょという意見には、私は同意できないし、たぶんそういうことを主張する人びとと私が見ている「本」というものは、どちらが正しいということではなく、まったく異なるものなのだと思います。だからその尺度でいまの出版文化を否定されるのであれば、それは違うよ、と私は思います。

前置きが長くなりましたが、そんなこんなで、私にとっては単純に生きるということそのものとして、そこに常にあるものとしての本の紹介を、ゆるゆるとしていこうと思います。

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と、それだけではアレなので、一冊だけ本の紹介を。

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神林長平『魂の駆動体』ハヤカワ文庫JA、2000年

日本をどころか世界を代表するSF作家である神林長平による(個人的には)最高傑作です。といっても、『だれの息子でもない』(講談社、2014年)(このラストはもう本当に最高です)、『ぼくらは都市を愛していた』(朝日文庫、2015年)、『アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風』(ハヤカワ文庫JA、2011年)とか、もう全部最高傑作ですね。

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大学時代、人形劇で一緒だった仲間が何人も読んでいたのですが、それ以降、神林長平を読んでいるという人にあまり出会いません。それってものすごくもったいないことです。私の研究テーマは技術論でありメディア論でありコミュニケーション論であり、そして最終的にそれは人間が存在するということに対する問いになっていくのですが、神林長平の作品にはものすごく影響を受けています。時折文体もオマージュしてしまったりするくらいに好きな作家です。

『魂の駆動体』は、おおまかにいって第一部が近未来、第二部が遠未来で、それぞれに異なる登場人物たちの「クルマ」を巡る物語になっています。第一部では、高齢者住宅に入居している主人公、そして彼の仲間になるかつて凄腕の技術者であったらしい小安の二人が、知恵と経験を生かして「クルマ」を作る過程が詳細に描かれます。その時代、すでに自動運転はありきたりの実用技術になっており、そこで走るものは「自動車」と呼ばれています。まさに自動で目的地まで連れて行ってくれるだけのもの。だけれども主人公は、かつてはクルマというものがあり、それは根本的に自動車とは異なるものであったと考えています。ちょうど上で書いた本と電子書籍の違いのような感じですね。どちらが正しいとかではなく、主人公の息子は自動車に疑問を覚えないのですが、ですので根本的なところで主人公と息子の会話はすれ違います。そしてまた、この時代ではシミュレーション技術が高度に発達しているのですが、クルマをシミュレーションで再現することとコンピュータ上で設計することについても、子安と主人公は議論します。これらの議論は非常に面白く、遠未来ではほとんどの人類が自らの魂をシミュレーション世界に移行してしまった後らしいという背景もあり、この物語全体を通じてこのテーマが深められていきます。登場人物は皆(神林作品固有の理屈っぽさを持ちつつ)魅力的ですし、自称画家先生の透明な鳩の話など、心に残る挿話も多くあります。

では、そもそもここで描かれるクルマとはいったい何でしょうか。

「排気量はそのままでいい。燃料供給を、インジェクタから、キャブレタにしよう」「なんだって。それじゃあ、退歩じゃないか」「そんなことはないよ。レスポンスもいい。構造も簡単だ」「調整はかえって難しいぜ。だいたい、始動性がわるい。運よく始動する、という感じじゃないか」「それはおおげさだよ」「オートチョークにしよう」「それならインジェクタのほうがいい」「なにをやりたいんだ」と子安。「始動で苦労したいのか」「そのとおりだ」と私は言った。「エンジンをかけるというのは、わくわくする。ガソリンエンジンというのは、電気モータとは違う。スイッチを入れれば即、回るというものじゃない。コンピュータ制御の燃料噴射装置だと、それを忘れそうになる。ガソリンに着火してエンジンが回るというのは、一種、奇跡的なことだ。それを味わいたい」(p191-192)
いまやはっきりと明るくなってきていた。その朝の光に払われ、霞は遺跡の底にたまるだけになった。かつて意識を保存していた遺跡の周囲を、高らかなエンジン音を響かせて、クルマが走った。まるで、遺跡に籠ったまま滅びてしまった意識たちをあざ笑っているようにも、また、いまはもうないというのにそのような意識を目覚めさせようとしているようにも、感じられた。キリアは見つづけるうちに、無意識に肩のあたりを動かしている自分に気づいた。いまの自分の身体にはない翼を動かそうとしているのだった。あのクルマとともに走りたい。いや、飽かずに見ている自分は、すでに一体となって走っているのだ、とキリアは思った。魂が、打ち震えている。運転しているアンクも、そうなのだ。きっと、そうなのだ。これが、クルマなのだ。魂を駆り立てるもの。[中略]アンクは一瞬、自分が運転しているのではなく、自分がクルマの身体になって疾走している感覚に襲われた。そのとき、アンクは、クルマの少し脇の前方に、なにかが併走しているのを感じた。路面はものすごいスピードで流れていたが、走行音は意識から遠く、静寂な雰囲気だった。それは、目に見える、というのではなかった。しかし、たしかになにかが、猛スピードでついてくるのだ。先導するのではなく、しかし遅れもせず、ともに疾走している。素晴らしい速度で。飛んでいるぞ、とアンクは叫んだ。自分のその声は聞こえなかった。路面すれすれを猛スピードで飛びながらどこまでもついてくるそれを意識すると、クルマも身体の感覚も意識から消える。飛翔感覚が自分のものになる。歓喜が吹きこまれたかのようだった。魂だ、とアンクは思った。こいつが、魂だ。どこまでも行ける気がする。大気を越え、宇宙を越え、時空を越えて、どこへども。自分も、また。(p458-461)

そう、それはただの機械ではない、コミュニケーションの対象であり、機械自身の魂を、ぼくらの魂を、そしてそれらが合わさった新たな魂を駆動するものなのだし、その駆動そのものなのです。

機械とのコミュニケーションは『グッドラック』とつながりますし、第二部のラストで魂を見送るシーンは、これも傑作である『永久帰還装置』(ソノラマ文庫、ハヤカワ文庫JA、どちらも絶版)を思い起こさせます。いずれにせよ、技術が人間の魂から生み出されたものであるのなら、それはいつか人間の魂に帰ってくるでしょう。それは単純な技術礼讃でも技術否定でも技術中立説でもない、どうしてぼくらは生きているのか、どのようにしてぼくらは生きているのかという、人間を超えたところにある存在そのものへの答えになるはずです。神林長平はそれをずっと問い続け、それを素晴らしい物語に昇華し続けている作家です。

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どんな意味があるのかは知りませんがふたたび非常事態宣言が出されたので、下記のリンクも復活させます。


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