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Rの思い出-#あの夏に乾杯-


Rは僕にできた初めての友達だった。

親にも驚かれるが出会った時のことを覚えている。僕が産まれて198日目。そしてRが産まれて188日目の日のことだった。

壁がショッキングピングに塗られたその部屋は「ちょうちょ組」と名付けられていて、今になって思い出してもなかなか奇妙な雰囲気のある場所だった。保育園の0歳児クラスで出会った僕たちは、自然と「存在する」ことが当たり前の関係性となっていた。


次のRとの記憶は泣きながら彼がみんなに質問をする風景だ。

「晴れている日に長靴履きたい人〜?」

その日は少し曇っているくらいの天気だったが、長靴を履いて登園したことをみんなに馬鹿にされないように共感者を集めていたのだと思う。僕は彼の気持ちが理解できたから手を挙げた記憶がある。そして「そうだよな!」と嬉しそうに近づいてくる彼の顔は、水面の波紋に映る顔のようで、ぼやけた記憶として僕の脳からこびりついて離れない。


彼とは同じマンションにも住んでいた。僕は19階建てマンションの1階で彼は16階。彼が僕の家に来る時、玄関のチャイムが鳴らされることはほとんどなく、僕の部屋の窓ガラスを叩く音が呼び鈴代わりだった。そして、僕が窓を開けると靴を地面に置いたまま窓から入ってくる彼を僕はいつもそのまま受け入れていた。

彼のその行動は、僕の父親に原因があって、20年ぐらい前までは必ず近所に恐いおじさんがいた。彼にとってまさに僕の父親は絵に描いたようなそれだった。そして僕の親が知らないうちにRは家に入り、親が知らないうちに家から出て、夕闇の中に消えていく。まるで忍者だ。


中学生になったある日の夕暮れ時、いつものように窓から侵入したRは、僕が寝るために敷いてあった布団の上で漫画を読んでいた。僕には3つ上の兄がいて、僕たちにとってはちょっとませた漫画本が家にはあった。彼は何も言わず漫画を読み始め、この日もいつものように窓からドロンするものだと思っていた。しかしその日の夕食が焼肉だったことで、その匂いに釣られたRは本能のままに食卓に向かい、僕の椅子に座った。

普通なら呼び鈴も鳴らさない訪問者に驚くところだが、僕の家族はRを普通に受け入れて、取り皿を彼に渡した。親は知っていたのだ。そして「や・き肉!や・き肉!」とフォークを持ちながらテーブルを叩く彼に、近所の恐いおじさんは「硬いミノ」を分け与え「これ飲み込めたら焼き肉やるわ」と、意地の悪い遊びをしていた。僕はと言えば普通の肉を食べながら、負けず嫌いのRをじっと見ていた。

「もぐもぐ、くちゃくちゃ、もぐもぐ、くちゃくちゃ」

「おっちゃん、もう嫌や。出していい?」

「だめや!食べろ!てかお前どっから家に入ってきたんや!」

「うえ〜硬いよ〜」

ちなみに僕もRの家で食事をお世話になることがあったが、こんな仕打ちを受けた記憶はない。


Rは僕にとって初めてできた友達でもあったし、初めてできた親友でもあった。親友というのは付き合いが長いからできるものでもなく、信頼が生まれて初めて発生する関係だと思っている。

ある時、僕はRにDragonAshのアルバム「viva la revolution」を貸していた。返してもらおうとRの家に行くと僕の知らないRの友達が彼の家に集まっていた。僕が「viva la revolution返して」と言うと、僕の知らないRの友人がこう言った。

「あれ?友達にもらったって言ってたじゃん」

まぁ子ども時代には良くある話ではあるけれど、僕の心は鋭利な刃物で切り裂かれたような、冷たい氷を触り続けたような、そんな痛みを感じていた。居心地の悪さを感じながらも、帰るにもなんだか気が引けて帰れない状況の中で僕は最後までRの家に居続けた。

もう暗闇が街を覆う中、僕は1階までRと一緒に向かい、花壇の段差に2人で腰掛けた。気まずい雰囲気を嫌うRが座るやいなや僕にこう告げた。

「ごめん。本当にごめん。」

僕は心からその時に思った言葉を口にしていた。

「Rなら良いよ。それを許せる関係だから。」

その後、どのように別れたのかは覚えていない。でもその次の日、彼の家で食事をしている時にRがいない所を見計らって彼のお母さんがこんな話をしてくれた。

「昨日の夜ね、Rが私の所に来て、ふみ(Rの僕の呼び名)は一生大切にする。あいつは友達じゃない。仲間なんや。って言ってきたのよ。もし何か悪いことをする時も、あいつだけは巻き込まないって(笑)。何かRの中で思うことがあるのね。ありがとうね。」

僕は背中に羽がついているかのような気持ちになって、おそらくちょっと浮いていたかもしれない。親友ができるってこんな嬉しいことなのかと思ったことを覚えている。

あいつだけは巻き込まない

10代の多感な時期特有の言葉だと今なら思う。


Rは今まで出会った中で一番男前な男の子だった。兵庫県西宮市にある西宮北口駅にいた時、女子高生に「滝沢さんですか?」と聞かれたことがあるほど、ジャニーズの滝沢秀明さんにそっくりだった。小学校の時からバレンタインデーにはたくさんのチョコレートを持って帰る姿を覚えている。ホワイトデーの日、珍しく家の呼び鈴を押した彼が、僕がドアを開けるやいなや「お返しです!」と言いながら女の子に渡す予定のお菓子を僕に渡そうとするというドッキリをされたこともある。Rが呼び鈴を押した時、僕にはあまり良い記憶がない...。

僕はもてない男の子だったから、いつもRが眩しく写っていたし、彼は顔だけでなく成績も優秀で、中学から私立の有名学校に通っていた。運動もできて一緒にやっていた空手では僕が有段者になるまでにかかった10年を遥かにしのぐ3,4年で有段者になったのを覚えている。

神は二物を与えたのだ。

そんな人気者のRだったが、僕を仲間として扱い、そして大切にしてくれた。

12年飼っていた犬が他界した時も、目的地なく泣きながら自転車で走る僕を見つけて一緒に悲しんでくれたり、アトピー性皮膚炎がひどい時に銭湯に一緒に行ってくれ「そんなひどいことになってたんやなぁ、辛いなぁ」と気持ちを汲み取ってくれたりしていた。

決して全てにおいて優秀ではなかった僕を、Rはずっとずっと大切にしてくれたのだ。


高校生になると、Rと過ごす時間が劇的に減った。彼は私立の高校。僕は地元の公立高校に通っていたから、彼との時間は減る一方だった。今考えれば、あいつだけは巻き込まないを体現してくれていたのかもしれない。でも時より「ドンドン!」と窓を叩く音が聞こえると、何も変わらない日常が訪れたように、Rは僕の布団の上で漫画を読んでいた。

そして17歳の夏休み。僕がRの家に行くことが増えていた。彼の部屋にはお父さんの本が壁一面に置かれ、まるで書斎のような部屋だった。僕とRは相変わらず会話もせず、静かな部屋の中で漫画を読んでいた。

静かすぎて心配したRのお母さんがそっとドアを開けて中を覗き見たほど、僕たちは部屋の端と端で、まるでお互いが存在しないかのように、じっと座って自分たちの時間を過ごしていた。

何を生み出すわけでもなく、何か目的があるわけでもないけれど、暑い夏の日、あの暑い部屋は僕たちにとって楽園だったのだと今なら思う。誰にも邪魔されず、2人だけの時間を過ごすことのできる場所だった。


僕はRとやってみたいことがあった。それは一緒にお酒を飲むこと。まだ10代だった僕たちはお酒を酌み交わしたことがなかった。Rも僕もそんなに真面目な人間ではなかったけれど、それでもお酒は飲まなかった。いつもRはコーヒー牛乳と卵サンド、そしてカールのチーズ味を食べていた記憶がある。彼の大好物だった。

いつか、一緒に酒を飲みたい。

どんな人生を送る中で飲めるか分からないけれど、同じ月に産まれた僕たちは、20歳になったその月に

「乾杯!!」

と言うのだろうと思っていた。あの日を迎えるまでは...。




高校三年生になった僕はマンションから一軒家に引っ越していた。2階にあった僕の部屋はベットとテレビしかなく、休日はいつも朝10時半まで寝て、起きるとすぐ一階にある食卓に向かい、朝ご飯を食べるようになっていた。Rが窓を叩くこともなくなり、携帯電話を持つようになった僕たちの生活も様変わりしていた。


その日は学校が休みだった。僕はいつものように目を覚ますと、一階に降り、母親に朝ご飯の準備をお願いした。

その時、家の電話がなり、電話に出た母が僕に叫んだ。

「Rのお母さんから電話きてない!?」


電話の主は僕の父だった。美容師の父が店で偶然見た事故のニュースにRの名前が出たのだ。


僕は携帯電話を置いてきた2階にかけあがり、液晶画面を見た。Rのお母さんからの着信履歴。急いでかけ直した。

受話器から聞こえるRのお母さんの悲痛な声。そして羽を失った僕の背中。僕は着の身着のままタクシーに乗り、Rが眠る場所へと向かった。


18歳と58日。Rはこの世を去った。

18歳と68日。僕は親友を失った。


僕はあの事故まで、夢も希望もなく、生きる意味すら失っていた多感な18歳の高校生だった。何も気力がなく、テレビを見ては時計が勝手に進めてくれる僕の人生の時間をただ過ごす日々だった。でもあの日、僕は決めた。

Rの分まで人生を歩もう。まずは18年と58日は一生懸命生きようと。

あれからちょうど18年が経とうとしている。僕は36歳になる。あの日決めた人生の目的を達成しようとしているのだ。


僕にも子どもが産まれ、あの日の朝、Rのお母さんが感じた苦しみを今なら少しだけ理解ができる。これまでどれほどの苦しみを耐え抜いてきたのか。


18年と58日までまだ時間はある。次の目的に向けて試行錯誤が続く毎日だけど、その日だけはあの暑い夏の日、何も話さず過ごしたあの時間を思い出してこう言いたい。


乾杯!!ずっと君のことを忘れない!!ありがとう...。



あとがき

この文章は僕をこれまで支えてきてくれたRヘの感謝の気持ちです。僕は19歳の誕生日から毎年Rの誕生日にコーヒー牛乳か卵サンドかカールのチーズ味を食べます。年々若い胃ってすごいなと感じるほど僕も年齢を重ねてきました。

彼の死後、人は忘れられることが一番の悲しみではないかと考えてきました。彼の名前をネットで検索しても出てきません。でも彼は彼のご家族や友人、そして僕の中にいつも存在しています。薄れることのないこの記憶を、36歳を迎える今、残しておきたいと考えました。そして少しでも彼の存在がこの世に残ればと思い、今回「#あの夏に乾杯 」に挑戦することを決めました。

僕たちのようなクリエイターは、人生の経験を糧にし、そしてそれを身にして表現を繰り返します。

Rは僕に生きる意味と、クリエイターとしての力をくれました。

感謝の気持ちでいっぱいです。

僕は決して君を忘れません。本当にありがとう。


Rの親友竹鼻良文より


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