見出し画像

何もないから夢がある

何もない場所だな。

子どもの時、祖父母に会いに鹿行地域に行くたびにそう思っていた。

何もない、というのは子どもにとってはかなりの苦痛だ。夏休みになると祖父母の家に泊まることもあったが、やることのなさにお泊まりのワクワク感は30分も経てばしぼんでしまう。祖母は言った。「ここら辺はなーんにもないっぺ。退屈でしょーよ。」子ども心でも気を遣われているのはよく分かったが、あまりの何もなさに社交辞令の言葉すら出てこなかった。

あまりに暇なので、唯一遊び道具として持っていったサッカーボールを脇に抱えて家の隣にあった小学校のグラウンドに行ったものの、弟と2人でやるサッカーはすぐに飽きてしまった。おまけに地元のガキ大将に絡まれ、ケンカを売られる始末。最悪以外の何物でもなかった。

最終日になって特急電車に乗って帰る時が一番楽しかったかもしれない。今思えば、ずいぶんと不孝ものの孫である。

そんな何もないだけの場所というイメージが変わったのは小学5年生のことだった。親戚のおじさんがカシマスタジアムに連れていってくれることになったのである。おじさんは筋金入りのアントラーズサポーターで年間チケットも持っていた。そんなおじさんがアントラーズを好きになっていた少年の話を聞きつけ、チケットを用意してくれたのである。

スタジアムにはおじさんの家から歩いて向かうことになった。時間にして30分、夏の炎天下の中歩いても歩いても見えてくるのは畑と空き地ばかり。また何もないのか、と正直飽き飽きしていた頃だった。

スタジアムは唐突に目の前に現れた。周りの何もなさと見比べると、不釣り合いなほど巨大な建物だった。ただただすごいと思うばかりだった。

初めてのカシマスタジアムは新鮮そのものだった。お祭りのように賑わうコンコースからはそこら中から美味しそうな匂いが漂ってくる。初めて食べたもつ煮には、世の中にこんな食べ物があるのかとえらく感動した。その後、近所の焼き鳥屋では決まってもつ煮も買ってもらうようになったほどだ。

真っ赤に染まり、チャントが響き渡るスタンドは壮観だった。みんなが着ているあのユニフォームが欲しい、そう思った自分は一番買ってくれそうな祖母にねだった。ずる賢いやつである。人混みで飽き飽きしていた祖母だったが、孫の笑顔欲しさに買ってくれた。初めてのユニフォームは大好きだった8番、小笠原満男選手のものだった。もうサイズ的に着れなくなってしまったが、今でも家にずっと取ってある。ありがとう、おばあちゃん。

ピッチでは選手たちがボールを追いかけ、迫力あるプレーの応酬が繰り広げられていた。サッカー小僧にはとにかく輝いて見えたし、一挙手一投足を見逃すまいと夢中だった。いつか自分もあの場所に立ちたいと思った。結局、全く届かなかったけれども。

ミュージアムにも連れていってもらった。選手のスタンプが押された入館証を首から下げて入ると、あこがれの選手たちのパネル、ユニフォームがそこかしこに並んでいる。自分にとって天国だった。

そんなミュージアムにはアントラーズの成り立ちも説明されていた。様々な状況からJリーグ加盟は絶望的な状態だったこと、このカシマスタジアムが逆転参入の決め手になったことを知った。そして、買ってもらったユニフォームの胸元に目を落とすと、そこには「FOOTBALL DREAM」の文字が書かれていた。よくは理解できていなかったが、その時の自分にはすごく親近感の覚える言葉だった。

そこから今に至るまで、カシマスタジアムに何度行っただろうか。この前、自分で付けている記録を見たら100はとうの昔に超えていた。たくさんの勝利も敗北もこの目で見届けてきた。極寒の時も大雨の時も霧で真っ白の時もあった。どんな時でもスタジアムは自分に非日常の空間を届けてくれた。

2021年5月15日で、Jリーグは開幕から28年を迎える。正直、今でも鹿行地域は子どもの頃の印象が拭えるほどの賑わいを見せているとは言えないのが事実だ。でも、そんな街で多くの人々の願いが込められ建てられたカシマスタジアムは、多くの訪れた人々に感動や熱狂を味合わせてくれる場所になった。それはずっと変わっていない。

ぼくは今日もカシマスタジアムに向かっている。

画像2



遠征費とスタグル代に充てるので、恵んでください