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男と女のキャラクター

キャラクター表象ということばがあります。いったいなんでしょう?
そのためにはまず、「表象」の意味を知る必要がありますね。

ボクが使っているデジタル大辞林によると

ひょうしょう【表象】
〘哲〙感覚の複合体として心に思い浮かべられる外的対象の像。知覚内容・記憶像など心に生起するもの。直観的な点で概念や理念の非直観作用と異なる。心像。観念。

なんか難しいことが書いてありますが、感覚の複合体というのは、五感の記憶でしょう。それによって形成される外的対象の像。

まだちょっと分かりにくいですが、とりあえず展開してみますね。

人間をキャラクター化することをキャラクタライズといいます。別に実在の人間でなくとも構いません。マンガ家でもあり小説家でもあり、最近は猫の運輸会社の非正規雇用社員でもあるボクは、しょっちゅうやってました。

さてそのキャラクタライズは、物語に登場する人物を明確にするため、強さを誇張されたり、人間なら持ちうる一貫性のなさ、揺らぎなどが失われたりと、少し非人間的になってゆきます。そして物語における役割分担なども、フィクションといえども、現実とは無関係ではありません。

あ、なんだか社会的問題に発展しそうですね?

じゃあもうちょっと付け足しましょう。
よくタイトルで『女弁護士〇〇』とかあるように、職業の前に「女」を付ける必要はありますか?
「だわ」「わよ」などの女言葉がありますが、女性であるあなた、思考する時使ってますか?
使ってませんよね?

実はこの二つは、商業表現上でのある種のお約束だったりします。商業表現というのは、この頃ボクが政治的表現や言論と、敢えて分け使っている概念、用語で、ボクなんかは商業作家になります。商売として作家をやっている。まあ、作家ってほとんどそうなんですけどね。

でまあ、商業作家ともなると、そういう世間に横たわっている自明、ある種のお約束は守らねばならないのですが、同時にそれに批判的な声にも敏感でなくてはなりません。

女弁護士とか女医って表し方に、反発の声があります。その職業の前に「女」がつかないのはスチュワーデス、現キャビンアテンダントくらいなもので、看護婦は看護師(看護士)になりました。いま女〇〇と表すのは、AVとスポーツ新聞くらいでしょうか?エッチですね。

あと女流棋士とか女流写真家なども気になりますよね?

そして商業表現にはこんなお約束というか、もはや規制なのですが、1990年頃から学生服で飲酒、喫煙する絵は少年マンガ誌には載せられなくなりました。例え不良を表す記号的表現としても、NGになりました。
もっとも今の若い人たちは、当然でしょ?と当たり前に受け止めるでしょうけど、編集部から内々に通達が来たので、表現規制の問題の俎上にも乗らず粛々と進行してゆきました。

そういう経験から、ボクは「商業表現に配慮や規制は付き纏うもの」と、考えるようになりました。配慮というのは、例えばテレビでは御飯時に汚い映像は流さないでしょう?そういう類のものです。

さて、先に挙げた煙草の描写は、嫌煙権運動と一体であり、スムーズにことが運んだ例ですが、概ね女性の請願は通らないことが多いのはなぜでしょう?

1980年代には「女だてらに運転しやがって」といわれたり、幅寄せなどの嫌がらせを受けたり、運転免許をとること自体を家族や社会が反対していました。
そういう当たり前にあって然るべきものを、女に権利があるのか?といちいち問うのはなぜでしょう?

女を「流行に敏感ないきもの」として扱うようになったのは、バブル期の名残で、ホイチョイプロダクションなんかはそれをビジネスにしました。それだってバカにした話で、要は女ってものはミーハーで尻軽だから、それを狙う男が集まってきますよというマーケティングに過ぎず、女の主体性は無視されていました。

今の歴女や刀剣女子?彼女たちは、そういう扱いは受けていません。ただ、イヤな言い方になりますが、あくまでお金を払ってくれるお客様に限り。アニメ、マンガ、アイドル、それとゲーム業界と演劇界隈くらいかな?宅建業界なんか、いまだ腫れ物を触るかのような扱いです。

そして男のホモソーシャル社会のみならず、女も女の主体性に疑問を持っています。それはフェミニズムのなかの一派である、ラディカルフェミニズムがそうです。

彼らはフェミニズムは女の性欲や自己決定を疑ってる。
そんなバカな!
そんなバカな話を21世紀になってもしてるんですよ。

それも仕方ないかなあと思わないでもありません。
だって日本のメディアで「女にも性欲はあります」って公言した人は、今は亡きボクの妻である、みなみ先生なんです。

それも1990年代です。それからたった30年経つか経たないかなんですよ。

さてそういう予備知識を踏まえた上で、問いの答えです。

答えは、アムネスティーインターナショナル最新のニュースレターvol.489から一面だけ紹介します。

女が声をあげるのが許せない人たちってのがいるんです。それも決して悪意からではなく、よかれと思って。
対価は女の人権ですけどね。

女を自分の取り分、所有物だと思っている男が多すぎるんです。だから女が声を挙げると、おいおい俺の取り分が減るじゃないかと反発するんです。

そして男は男であることに、我慢しすぎるんです。
男らしさの呪縛は、究極的には特攻ですよ。

だって、いまネトウヨ人たちが「特攻隊員は愛する人や家族のために、爆弾抱えて敵に突っ込むなんて恐怖を乗り越えた」と賛美するでしょ?その後に必ずこう続きます。「彼は勇者だった。彼は正真正銘の男だ」

なんのことはない「男の証明」なんですよ。 

#kutoo の時もそうだったでしょ。まず女が声を上げるのが許せない人。そして男だって我慢して革靴履いてますっていう人。

バカじゃないの?

自分たちで声を挙げられないなら、せめて便乗すればいいのよ。それくらいの知恵もないわけ?ほんっと男らしさって意味ないわね!

わたしは肉体労働に勤しんでるけど、男らしくあろうとかそういうことじゃなく、単に重たいものを持ち上げられる体に育っちゃったから。もちろんマンガや小説も描ける、書けるけど、今はサボってるだけ。
因みにこの「わよ」文体は、小説家の発明で、本来なら女が使う必要はないの。

どういうわけか、標準的なものとして定着したかのように感じてるでしょうけど、実は時代ごとにかなり変化してるの。古い映画を観るといいわ。

だから今すぐ棄てていいの。
小説家だって困りはしないわ。それくらいで女が表現できなくなる小説家なんて、所詮その程度ってことよ。

もちろん棄てたくなければ持ってなさい。それは個々人の自由だから。

つまりキャラクター表象に関していえば、女のそれは殆どが男が作り上げたモノ。女が女自身のために作り上げたものは、まだまだ少ない。だって20世紀対1世紀だもの。

そして六ヶ敷いのは女のものであると同時に、女であるあなた個人だけのものではないってこと。もちろん男の場合も然り。
そのキャラクターは、あなたでもなければ私でもない。でもその誇張のされ方に違和感や抑圧を感じてイヤだなと思ったり、表明する自由はあるってこと。

そのあと、闘うかどうかはあなた次第だし私次第。
私は闘いません。特にTwitterではね。元々男らしさなんてものには拘る気がないし、革靴なんて冠婚葬祭でしか履かないから30年前に買ったものが、今でも履けるから。
ただ人権にはちょっと煩いだけ。

本当にハエのように煩いだけだから。
気に入らなければ、追い払えばいいだけ。
影響力もなにもない、この世でたった一人の人間。
時々あなたの記事を読んで、イイねしたりするただそれだけの人間。

男らしさを求められれば、かなぐり捨ててオネエ言葉を使う、そんなチンケな人間。

あとはもう少しお金が有れば、いうことなし。


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