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ワニが死んだ。広告はどうだ。

ワニが100日後に死んでしまうという漫画が、おそらくはそのコンセプトの発見への驚きもあって、話題を呼びました。僕も時々見ていて、100日目には何度か作者のアカウントを見に行き、「あれ、まだ99日が表示されている」「今日はもう更新されないのかな」などとやってしまったほどでした(何をしてるんだか)。

途中の物語は、素朴というかありのままというか、正直よくわからない日もあったけれど、そんな感情移入できない場面があっても100日で死んでしまうことを知っている、読者はこのいわば「神の視点」でみることで、とたんにあらゆるシーンが愛おしくなるから不思議です。わかっていたはずなのに、100日目にワニにアクシデントが起きたとわかるとショックを受け、ラストを飾った満開の桜の画には、不思議なくらい感動しました。

ああ、なんかいい作品だったな。

そんな「話題の心温まる作品」でおわるはずだったワニにも、直後に書籍化、映画化、グッズ化の告知が展開されると、とたんにTwitter界隈がざわめきはじめます。正直にいうと僕自身はそれらについてなんとも思わなかった(むしろちゃんとビジネスベースでやれててよかったと思った)ので、この展開を予想できなかったのですが、自分が鈍感だったのかな。ともかく、まさに獰猛なワニが獲物に飛びつくかのように、次々に批判がよせられていきました。

その論点はいくつかあるようですが、ひとつは「無料だと思っていたのにビジネスだったのかよ」というのが大きそう。まあ、その手の批判は少々既視感があって、個人的には「コンテンツが有料でなにがいけないのか」と反論したくなります。まるで「無料なら美しくて正しく、ビジネスは汚くていやしい」かのような決めつけは、あんまり好きになれない。よって僕の頭の中からは早々に却下されました。

ただ、それと似ているけれど、ちょっと違う指摘もあるようです。それは「ビジネスであることはいい。」でも「広告のやりかたとしてはどうなのか」という意味の問いかけです。つまり、「なにもあのタイミングでなくてもさあ」ということでしょう。ラストシーンに感動した矢先、その余韻に十分にひたる間もあたえずに、矢継ぎ早に告知がさしこまれる。なにやら、かの広告代理店、D通も関与しているとかいないとか、・・・。真偽はおろかどのレベルでなのかもわからないけれど、とにかく「興ざめ」だというのがこの指摘の要点です。

これについても個人的には、タイミングが遅ければよくて、早いと作品が損なわれかねないという意見というか感覚がいまひとつ実感できず、完全な共感はできませんでした。ただ、広告は見る人の心理に影響して、人を行動させるべきものでもあるから、掲出のタイミングで強い嫌悪感を与えてしまうという指摘そのものは興味深かったです。なるほどたしかに、葬式の最中にお坊さんが喪主と名刺交換を始めたような、世界観を壊すような見え方はうまくないのかもしれないな。

ではどのタイミングならよかったのか。何日か空けてから、それでいてまだ記憶にあたらしいうちに、「あのワニが書籍化されました!」などとやれば、広告として最大の効果を発揮したのでしょうか? よくわからないけれど、そこまで考えてふと、そういう問題なのかな? と疑問に思えてもきます。間を開けたところで、結局はおなじ批判を受けたかもしれない。

なにがいいたいかというと、

広告って、そんなにさもしいものなのかな? けっしてそうじゃないよな! ということ。今回は感動のラスト直後というタイミングのせいだったのか、映画やグッズというありがちすぎる訴求の陳腐さのせいだったのか、それともまだ僕が気づいていない何らかの欠落のせいだったのかわからないけれど、とにかくきっとどこかに最高にフィットした企画が、コピーが、タイミングがあったはず。で、それを外してしまった。100日というわずかな期間で、これだけ多くの人の心をつかんだコンテンツが、その大きすぎる期待値と、つりあうかそれ以上のパワーを持った広告とは惜しくも出会えてなかった。ということなんじゃないかな。つまりコンテンツが広告に勝ちすぎてしまった。結果、そのアンバランスが「こんなのマナー違反じゃないか」みたいな批判を生んだってことなんだと思う。

素晴らしい広告が世の中にはいっぱいあって、そこにはその広告をつくられたすばらしいクリエイターの仕事がある。きっとこの奇跡的コンテンツのスピード感にだって、くらいついてく広告も生まれるはずだよね。今回はたまたまそうじゃなかったけど。・・・ということで、

よくね?




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