君と僕が生きている理由

思考の新陳代謝

noteを書くのは移動中だけのつもりだったが、連休中は余裕がありそうなので書けるだけ書こうと思う。明日は急に熊本に行くことになった。移動ではあるが、書くかはわからない。たぶん書くと思う。

今日はやりたいと思ったことが全部終わった。それはたまたまだし、量が想定より少なかっただけかもしれないし、想定が過剰だった可能性もある。それでも今日に悔いを残して眠る日よりは幾分か気分がいい。デザインを考える日だった。

1日1日にテーマを持って、今日はこの範囲を、このテーマを終わらせようとして、きっちり終わらせること。そんな毎日を、連休中は心がけたい。

偶然はつかむもの

偶然というものは、偶然起きるから偶然なのだろうか。偶然をつかむとは何か。もちろん事象そのものが起きることは偶然だと思う。しかし、起きた偶然を活かすことは能力だと思うし、起きていることに気づくことは感性だと思う。そういう意味で、偶然はつかんでいきたいし、楽しんでいきたい。

君と僕が生きている理由

「なんで僕たちは仲いいんだっけ?」

理由なんかなくてもいいことだけれど、やっぱり仲がいいひとたちには共通点があるんだろうと思って熱心に探した時期があった。ある程度の共通項は見つかれど、どうしても「例外」が出てきてしまう。そして人間関係を、友人である条件をきれいに言語化しようなんておこがましい、やめだやめ!と思った過去がある。

それでもお互いにちゃんと会いたいと思って、ちゃんと時間作って会って、言葉を交わして。頻度は多くなくても確実に重ねていくうちに、価値観の共通点が見えてきて、「わかるわかる」ってなって、さすが僕の友達だ、ってなるの、超セクシーじゃないですか?超セクシー。

理由なんてなくてもいいけど、時とともに理由が滲み出てくるのは、それはそれで尊いと思う。

悩みは決断の先延ばし

「私の彼氏が本当にひどくってね」という話は人類が誕生してから繰り返し語り継がれてきた話である。その愚痴とも惚気とも似つかない発言は共感を求めている。共感だけを。

「わかるーうちもさー」という慣用句で成立した女性コミュニティは共感のポーズをしつつ自身の話のみをするその地獄のコミュニケーションから学ぶに、共感すら求めてない可能性もある。

なんにもわかっちゃいないし、わかる気もないのだ。だって他者をわかるのはとても難しい。わかった上で、わかったことを示すのも難しい。

解決策を求めるでもない、他者からの共感を求めるその「悩み」は決断の先延ばしに他ならないことに、今日ようやく気づいた。それは、自分が最近悩んでないことに気づいて。悩むってなんだろう?と考えた結果行き着いた。

悩むのは時間の無駄だ。考えるか、決めるかしかないんだ。

行動こそがすべて。「やってから考える」という思考法は最強だと思う。

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