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定時先生!第39話 負のリレー

本編目次

第1話 ブラックなんでしょ

「彼、大丈夫かな」

 背後からの唐突な声に、遠藤は驚いて振り返った。西田が眉間を狭め、北沢が消えた街角を眺めている。
 北沢を気に掛け、遠藤に遅れて様子を見に来た西田は、職員玄関で外履きに足をねじ込んでいるときに、北沢の怒声を聞いていた。

「わかりません…」

 そうとしか言いようがない。
 北沢は、非正規職員の講師として遠藤より1年早くS中学校に着任していた。新卒採用で右も左もわからなかった遠藤からすれば、北沢は同期採用の仲間であると同時に、頼れる兄貴分のようでもあり、ときには、上手くいかない自身と比較し、仄かな嫉妬を内心に灯すこともあった。
 そんな北沢の取り乱す姿を目の当たりにした遠藤に、他にどう表現できようか。

「北沢くんの声、職員玄関まで響いてたよ。中島先生は良いのか、って。彼、中島先生みたいに、定時退勤を目標にしているところがあるのかな」

 そうです、いや、今となっては、そうでした、が正確だろうか?いずれにせよ、北沢の内面に踏み込む質問には答えかねた。しかし西田は、遠藤の沈黙と表情から、ある程度質問の答えを察していた。西田と遠藤は、校舎へと引き返す。薄暗い職員室前の廊下で西田は立ち止まり、呟いた。

「中島先生みたいな働き方は難しいよ」
「…ぼくもそう思って、北沢くんに言ったんです。すぐには中島先生みたいにはいかない、って」
「すぐにというか、無理だよ」

 遠藤は、言葉を失った。

「俺も子供小さいし、そりゃ早く帰ってあげたいけど、実際仕事が終わらないから。初任の頃からもうずっとこんな調子で、もう慣れたけど。学校の仕事はさ、どう考えても定時で終わりっこない全体量だから、実質、誰かが時間外にやらなきゃ回らない」

 職員室の扉の小窓から差し込む光が、西田の顔を照らす。

「定時で帰る人がいたら、協調性無いな、って思われちゃうよ。そうなったら、とくに初任者は仕事しづらくなるでしょ。だから北沢君に、もっと周りに気を配るように言ったこともある」

 北沢の、西田の言動に対する不満の吐露を、遠藤は思い出す。

「中島先生は中堅だし、あのぐらい仕事が早くて確実な人なら、定時退勤しても周りからとやかく言われることは無いよね。ただ、周囲からどう思われてるかは…」

 教務主任を務めるほどの実力者である西田の口から語られる職員室の現実。言外に伝わる西田自身の中島への印象。
 遠藤は、あの日の北沢の質問の意味を、ようやく理解した。

ー中島先生は生徒も知ってるくらいいつも定時退勤なわけじゃん?先生方からはさ、どう思われてるかなってことー

 北沢は、予感していたのだ。定時退勤の結果を。


「そうかあ。コロナが無けりゃ、飲みにでも連れてって、ゆっくり聞いてやれんだがなあ」

 職員室に戻った西田から、一通り報告を受けた市川は、太い腕を組み直し、そう述べた。隣に立つ遠藤は、改めて一連の出来事を思い返し、一つの疑問と向き合っていた。

ー俺はー

 学校の業務は肥大一途だ。かつて学校荒廃に対し熱心に推し進められた部活動指導や生徒指導。社会が求める度、安全、情報、健康などの語を冠し現場に下ろされる新たな教育。それらは止まない雪のように降り続け、溶かされることも除雪されることもなく、今や堆い雪山となっている。献身的な長時間労働をもってこの雪山を維持してきた職員室の伝統から、若手の離脱など許されない。こうして育った若手から、次の若手に黒く重い教師のバトンを渡す負のリレー。

 教師の多忙の要因は、業務量の多さのみによる単純なものではない。それ以上に、教師ら自身の意識が業務改善の足枷になっている。


ー俺は、中島先生を倣おうとしている俺は、間違っているのだろうかー


「中島が早く帰れるのは、部活を減らしたからだな。西田は今のサッカーの専門部長だけど、中島は元バドミントン専門部長なんだぞ。昔は熱血顧問だったのに、よくあそこまで減らせるよなあ」

 遠藤は耳を疑った。終始落としていた視線を上げ、口をとがらせる市川を見た。
 初めて知る中島の経歴。そこからなぜ負のリレーの外に立つに至ったのか、遠藤にはどうしても想像できなかった。