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バンドネオンソロライブ プログラムと補足

はじめに

この投稿は、4/23 (日) に実施したバンドネオンソロによるアルゼンチンタンゴのライブについて、当日来場・視聴いただいた方、惜しくも都合の合わなかった方に向けてプログラムを紹介するものです。

前半

 古典的なアルゼンチンタンゴには、32小節程度の短いモチーフに対して和声的・リズム的にアレンジを施し、音楽性・独創性を競う文化がある。前半には、このアレンジ文化の祖とも言うべき人物、Julio De Caroの作品を中心に、様々なアレンジャーの風味を取り上げた。

Boedo:ブエノスアイレスの地区の名であり、通りの名でもあるBoedo(ボエド)という曲は、タンゴにとって象徴的な場所として、しばしば歌詞などに登場する。冒頭では、Máximo Mori、末尾ではLeopoldo Federicoによるアレンジを取り上げた。二種飲み比べ。


後半

 ボタン配列の奇妙さから、楽器としての取っ掛かりの難しさにフォーカスされることが多いのがバンドネオンという楽器。
 一方で、タンゴ・バンドネオンにおいては、71個のボタンと開閉の2パターンの配列を覚えて楽器が弾けることは、スタートラインにすぎず、プレイヤーとしてのセンス、作編曲のセンスが問われるような世界が本丸である。
後半の曲は、いずれも歴代のバンドネオン奏者である、Eduardo Arolas、Aníbal Troilo、Leopoldo Federico、Ástor Piazzollaのもの。

Pedro Y Pedro:デカロの楽団を支えた二人のバンドネオン奏者、Pedro MaffiaとPedro Laurenzに捧げて、ピアソラが作曲し、フェデリコに託した曲。プログラムの総まとめとして、最後に位置付けている。


アンコール

Mi Refugio [Juan Carlos Cobián] 邦題:私の隠れ家
 過ぎ去った青春を回想する歌詞があるが、音域が広すぎるためかインストで演奏されることが多い。ピアソラの甘美なアレンジが後世のバンドネオン奏者に大人気を博している。

Caminito [Juan De Dios Filiberto] 邦題:小径(小さなみち)
 かつて二人で歩いた道を今は一人で歩く、という寂しい曲。
 一つのものを巡って人間の変化を描くのはタンゴの歌にありがちな一つのパターンで、再開した恋人たちが他人のようになってしまったとか、昔の盛り場にきたがもはや誰も自分のことを知らなかったとか、例を挙げればそれなりの数になる。
 前半はBoedoの通りから出発しBoedoに終わったが、アレンジという文化は歌のパターンと同様であって、一つのものを巡って見方が変わるというのはタンゴ全体としての中心的なテーマなんじゃないかなと思うわけ。


プログラムされたプログラム

 Boedoは序盤に弾くには譜面が黒く、速弾きがあるし、Marrón Y Azulは曲の重さに惨敗したが、それでも選出したのには、それなりの理由がある。
 Boedoはアレンジというタンゴの文化、中心的なテーマを表す上で先頭にこなくてはならなかったし、後半は、ピアソラの師匠の作品La Última Curdaからの三曲で 見習い期→修行期→円熟期 という軌跡をなぞっているので、どうしてもMarrón Y Azulを組み込みたい。
 演奏会にしろ踊りの場にしろ、選曲をする上では、誰もが中身と順番を考えるもの。ただ、今回のライブではもう少し踏み込んで、コンセプトありきでプログラムされた(仕組まれた)プログラムをお届けした。
 大げさにいってよければ、プログラム自体が演出性を持つのってどうでしょうか、素敵じゃない??というつもりである。何か感じてもらえるものがあれば、10年来温めてきた偏屈な拘りが報われる。


おわりに - 副題への補足

 今の今まで説明するのを忘れていましたが、ライブの副題には"Qué Solo Estoy"という、愛する人と別れて(というか、振られて?)一人になった身を嘆く、ある意味コテコテの歌のタンゴの曲名を採りました。
 原題は、曲の中身も加味すると「なんて孤独なんだ!」と訳すべきものでしょうが、ライブの文脈では、「なんてソロって素晴らしいんだ!」との、おひとり様讃歌と思いたいところです。


ほか

・プログラム中の曲によるプレイリストhttps://music.apple.com/jp/playlist/20230423/pl.u-Ldbqzkqt2Jx7gx

・一部アーカイブ(Youtube)
https://youtube.com/playlist?list=PLJVKDJQKviY1dIp8BoYv2DxKf1uUpwMvJ