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隈研吾が50周年記念展示場を手がけた理由|東日本ハウスのジレンマ

木造住宅メーカー・日本ハウスHD(旧・東日本ハウス)の50周年記念展示場はご覧になりましたでしょうか(図1)。

図1 50周年記念展示場

良し悪しはとりあえず置いておいて、その衝撃的なデザインは建築家・隈研吾(1954)が設計監修したもの。1969年に創業した木造住宅メーカーの歴史と誇りを世に問うた姿がこのモデルハウスというわけです。

最近の家づくりトレンドとしては、ムダにヒーロー・ショーとか開催する総合住宅展示場や、ハイスペックなモデルハウスに疑問が投げかけられ、実際の身の丈サイズ&グレードを体験できる方向が模索されています。

そんなことお構いなしに日本ハウスHDの50周年記念展示場は、自社が推す檜4寸角オーバースペック住宅という「誇り」が実体化したような振り切りぶり。

ハウジングプラザ瀬田展示場に建つこの隈研吾設計監修モデルハウス、良し悪しは置いておいて、日本ハウスHDの、というか旧社名・東日本ハウス50年の歴史を考えるとなんとも感慨深く、味わい深いのです。

ブッ飛んだ創業の頃

大阪万博の前年、1969年に創業した東日本ハウス。岩手県盛岡市で創業した時は社員数名で大和ハウス工業の販売代理店を営む弱小工務店でした。その後1971年に木造注文住宅へ転身し、以降、北海道から鹿児島まで支店展開する大手木造住宅メーカーに成長しました。

このあたりの経緯は『東日本ハウス10年史』(1979)が詳しく、そして熱い。大企業の上品な社史とは違う、雑さとエネルギーに溢れています(図2)。「正(統な歴)史」ではなく「正(直な歴」史」みたいな。

図2 東日本ハウス社史

『10年史』の表紙はまさかの騎馬戦風景です。これは新入社員研修での恒例行事でもあって、東日本ハウスのアイデンティティにかかわるほどのイベント。執筆者は社員や関係会社はまあフツーとして、寄稿コーナーに社員行きつけのバーのママも執筆してます笑

さてさて、創業者・中村功(1936-)は出光興産を退職後、起業するにあたって極めてシンプルに「今後伸びる産業を選ぶ」という基準を定めます。なぜか候補は「ジュース販売」。ところが、たまたま社員(予定者)の一人が口にした「(サラリーマンは最終的に)「家がほしい」という言葉で方向転換。

1969年当時、未来学ブームのなかあらわれた「未来産業」に数えられる「住宅産業」に決定します。つまりは、もともと家づくりに愛も関心もなかったということ。

とりあえず、「住宅産業」なるものを始めるために、永大・ミサワ・大和にそれぞれ代理店をやらせてほしいとお願いすることに。結果として、東日本ハウスは大和ハウス工業の代理店になります。なぜ3社のうち大和ハウス工業を選んだのかというと、唯一、保証金が不要だったというオチ。

往々にして、後からみると「大和ハウス工業の創業者・石橋信夫を尊敬して」とか、その石橋が範とした松下幸之助の経営思想に関連づけて「大和ハウス工業代理店という選択」を考えてしまいがち。でも、現実はもっと滑稽。

ほかにも創業当時のエピソードには事欠きません。

社名決定も社員に「シンワハウス」で登記してくるといって出て行ったのに、帰ってきたら「東日本ハウスにしてきた」という展開だったり、家が売れなくって物置や消火器を売ったり。

さらには鉄骨プレハブから木造住宅へ転身したのは、お客さんに「お前にまかせるけどプレハブは嫌だ」と言われたからとか、とにかく行き当たりバッタリだったことがわかります。

中村功の通俗道徳

そんな東日本ハウスもオイルショックをくぐり抜け急成長を遂げたのですが、なにより特徴的なのが創業者・中村功の経営哲学というか、戦前生まれに未だ濃厚な通俗道徳(=信心が商売の成功を約束する)です。

中村ワンマン社長率いる東日本ハウスでは、木造住宅と日本の伝統と人生哲学などが渾然一体となった思想が形成されていきます。言い換えると、木造住宅と日本の伝統と人生哲学が渾然一体となった思想は、会社を設立したのち徐々に形成されていったのであって、思想から会社が生み出されたわけではないということ。

中村は大和ハウス工業の代理店を経験し、プレハブメーカーの強みを実感しました。それは、販売力重視、原価計算、商品開発の3つ。これを活かせば在来工法でも十分戦える。むしろ、日本人は在来工法の家がピッタリあう。ただ、大工・工務店は圧倒的に営業力が弱い。営業力強化のためには、社員という「人」が重要だ、「人間産業」だ。こうした論理展開から非常にマッチョで浪花節な経営姿勢が構築されていったのです。

そんな中村の思想をもとに、東日本ハウスは「東北の大工さん」「日本の技と心」を謳い木造住宅を売っていきます。みちのくの小さな工務店が関東へ逆上陸、さらには全国展開するという展開も物語化されていきます。

1987年には「近代和風」をコンセプトに据え、1992年には近代和風「やまと」を発売。実は会社の象徴ともいえる「檜4寸角柱」は、この「やまと」で標準仕様に定められたかなり後発のコンセプトだったのです。

中村は1994年に社長職を藤澤誠一に譲ると、会長に就任。その後、右派政党・青年自由党の結党や、映画『プライド』(1998、東条英機が主人公の映画)、『ムルデカ17805』(2001、インドネシア解放戦線の話)の制作など、自身の通俗道徳を政治思想へと展開させ、同時に会社の資金を散財。後に大きな負債を会社に残すことになります。

二代目社長・藤澤誠一も、そうした会長・中村を支えつつ、自らも創業の精神をあらためて徹底していく道を歩みます。正確にいえばそれは「創業時の精神を再徹底する」のではなく「徐々に確立された右派思想から逆算する」行為だったように思えなくもない。

藤澤は社長就任早々に「東日本ハウスの『憲法』を磨こう」を掲げ、経営方針を明確化、「我が社の伝統(良き伝統)編」などを示しました。二代目の苦悩がそこににじみ出ている気がします。

木造・住宅・メーカー

東日本ハウスは大和ハウス工業の代理店から木造在来工法の注文住宅へと転換したときから、「木造注文住宅だけどハウスメーカー」という矛盾を背負い込みました。

ハウスメーカーが軽量鉄骨や鉄筋コンクリート、あるいは木質パネルを用いた大量生産・大量販売、工業化・合理化を進め、日本の家づくりを変革していくなか、東日本ハウスは木造在来工法で住宅産業に殴り込みをかけました。

同じく木造在来工法を手がけた住友林業(1975から注文住宅事業開始)は財閥系特有の上品さがあるし、一条工務店(1978創業)は売るためのなりふりかまわない姿勢が顕著。それに比べ東日本ハウスは中村功の圧倒的ワンマン経営でもって保守思想や通俗道徳をベースに木造在来工法を手がけていきます。

「東北の大工さん」がつくる「メーカー住宅」。そもそも注文住宅は商品住宅に馴染みません。ここに東日本ハウスのジレンマがあるのでは中廊下。そう思うのです。

たまたま選んだ住宅産業、木造在来工法に対し、創業者・中村功の典型的な保守思想と、戦前生まれに未だ濃厚な通俗道徳が加味され、「東北の大工さん」や「日本の技と心」を謳い住宅を売った東日本ハウス。
 
保守思想と通俗道徳、そして愛郷心はバブル経済という時代背景と相俟って「経営の多角化」につながり、テーマパーク「けんじワールド」や「銀河高原ビール」、「ホテル東日本」へもつながりました。これらは「家づくり」から「まちづくり」、そして「国づくり」へと拡大していく創業者・中村の肥大化していく経営思想と一体なものだったのだと思います。

日本ハウスHDへ

こうした東日本ハウスの歴史は、小さな木造住宅会社が関東へ上陸し、さらには日本全国に展開していった創業者・中村功によるⅠ期、大企業となり多角経営の爛熟期を謳歌、同時に創業精神の創造が試みられた二代目・藤澤誠一のⅡ期として描くことが可能かと思います。

そして、その後、倒産目前まで落ち込みながら今までの矛盾を大胆に整理し立ち直る三代目・成田和幸のⅢ期が今にあたります。この現社長・成田和幸の改革は、「ハウスメーカーだけど木造注文住宅」というジレンマを徹底した経営合理化と財務再建を通して解消するプロセスだったと評価できそう。

だからこそ、成田は自らの改革を「第二の創業」と名付けたし、こだわりつづけた本社所在地を創業の地・盛岡から東京に移しました。これまで不徹底だった軸間パネルの使用やメーターモジュールの採用も徹底しました。流入していた右派思想も合理的なもののみ取捨選択していきます。

この成田だからこそできた「割り切り」でもって東日本ハウスの住宅はようやくハウスメーカーの家になったとも思えます。だからこそ、社名も「日本ハウスホールディングス」と変更したのでしょう。

いま日本ハウスHDの家は「強さ、エネルギー、安心」の3つを軸に展開しています。檜4寸は「強さ」の手段としてであって、そのほかは檜がまとった意味を表層的に活用している。それが成田流の合理主義。

さて、ここまできて、なぜ建築家・隈研吾が日本ハウスHDの50周年記念展示場を手がけたのかが見えてくる気がします。あのデザインは本格木造注文住宅を標榜する路線からは生まれてこないものでしょう(図3)。檜4寸角柱をモチーフにこれからの住宅をデザインした、というにふさわしい。実際、成田は次のように言っています。

図3 展示場内観

当社の50周年記念事業として、木造を理解して頂けるNo.1の「建築家」隈先生に、何とかお願いできないかと八方手を尽くし(中略)ました。依頼条件は「檜」をテーマに近未来の家の設計、デザイン、家具に到るまで、すべて隈先生にお願いさせて頂き、この3月3日(土)にはハウジングプラザ瀬田展示場内にオープンする運びとなりました。
(隈研吾×日本ハウスHDスペシャル対談)

隈自身も50周年記念展示場について次のように語ります。

日本の発想が持っている技術である、木の構造のシステム、それを50周年に合わせて象徴的に見せたいと思いました。やはり日本の匠っていろいろ世界と仕事をして圧倒的に世界一だと思います。木を正確に組んでいってしかも強いものを作る。この日本技術の粋を体感してもらえるような、ただビジュアルだけでなく、ここに入ったら体が日本の技術のすごさを体感できる、そういう家が日本ハウスHDさんの50周年にふさわしいものだと考えました。
(隈研吾×日本ハウスHDスペシャル対談)

もともと事後的に木造在来工法を選び取った東日本ハウスが、三代目社長・成田和幸の徹底した経営&商品合理化のなかで、さらに木造住宅を表層的・象徴的なものへと昇華させていったと思うと、そのエポックとなる50周年記念展示場は、「和の大家」隈研吾にこそ依頼すべきものだったのだと思います。

言ってみれば、50周年記念展示場は、木造在来工法が木造在来工法である基盤を失った時代に生まれた日本ハウスHDの「M2」なのだと。

(おわり)

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参考文献
1)東日本ハウス『東日本ハウス10年史』東日本ハウス、1979
2)東日本ハウス『東日本ハウス40年史』東日本ハウス、2009
3)東日本ハウス『不屈の経営』アチーブメント出版、2014
4)中村功『非エリートがエリートに勝つ日』東洋経済新報社、1995

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