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物語の解像度について 「狭霧は意地悪でヤなやつですよね」

「感想」は自由だけど…… 『ウィッチウォッチ』

近頃、作品と鑑賞者の間で、鑑賞者側の質が落ちているのではないかと思うときがある。いつか記事にしようと思いつつも、他人を見下すようで、気が引けていた。しかし、今週の少年ジャンプを読んでいると、思わずうなずいてしまうシーンがあったため、背中を押してもらった気持ちで、書いてみることにする。

以下が問題のシーンだ。

『ウィッチウォッチ』の中で、二人の高校教師が、あるマンガについて会話をしている。片方は自称「ド腐れガチオタ」の真桑まくわ。隠れオタクである。もう一方は「一般読者」の三好みよし。ここでは「オタク」と「一般読者」の噛み合わなさが、真桑視点でギャグテイストに描かれている。

三好がひとつマンガの感想を述べるたびに、真桑は心の中でツッコミを入れていく。

三好「狭霧は意地悪でヤなやつですよね
真桑「え待って狭霧くんを単純に意地悪って言っちゃうのは読み込みが浅すぎない? 彼の行動は全て後輩を成長させる目的があるって示唆されてますけど? そういうシーンには気づかない? あっそう」(太字=筆者)

そのマンガは『ウィッチウォッチ』の作中作なので、狭霧さぎりというキャラクターが実際に真桑の解釈通りなのかはわからない。しかし、僕はここで真桑に深く共感してしまった。

まず、「批評・批判」の際には客観が必要だけど、「感想」は主観だから、何を言おうと自由ではある。でも、会話の中で「嫌い」を表明するときには、少し気をつけるべきだ。主観で言っているのだから、相手は共感を覚えられない限り、「ふーん、そうなんだ」程度の反応しかできない。そこから会話を発展させる労力を相手に押し付けてはならない。だから、そもそも会話の中における感想で「嫌い」は言わないのがベターだろう。三好のように、そこがわからない人は結構多い。

上の場面の直後、「オタク」を自覚している真桑は、すぐさま自分の考えを打ち消す。

「はっいけない! これ以上はいけない! これはあくまで解釈違い! 自分の考えを押し付けるべきではないわ

僕と違って、オトナの態度である。

とはいえ、真桑の読み方が基本的に「批評(客観)」的なのに対して、三好の読み方は「感想(主観)」的なのが面白い。話が噛み合わない要因のひとつだろう。

この主観と客観をめぐって、今現在、鑑賞者たちの間で、退化とも呼べる現象が起こりつつあることを指摘していこうと思う。

「真面目さ」の要求

予め提示しておくべきは、僕が薄々感じていることとして、キャラクターに過度な「真面目さ」が要求される傾向がある。「真面目」と言っても文字通りの意味ではない。主人公には主人公の、悪役には悪役の「真面目さ」というように、役割ごとに求められる内容は異なる。例えば、

・主人公には常に行動力や向上心が求められる。

・悪役にはそれなりの行動原理(ときに共感可能な)や、最終的な制裁が求められる。

といった具合だ。もともと頭のネジが外れたような造りのキャラクターは別として、これらを満たさない場合、鑑賞者には不満が生じやすい。

上の狭霧のようなキャラクターの場合は、単なる「ウザキャラ」として括られてしまいがちだ。物語の「お約束」として、最終的に謝罪なり改心なりしない限り、三好のようなタイプの読者は納得できないと思われる。これはかつての義務教育における、道徳科目の弊害かもしれない。もし彼がロシア文学などを読んだ日には、頭痛を起こすのではないか。

「主観・客観」① 『プラネテス』

本題に入る。

Eテレで、宇宙を舞台にしたSFアニメ『プラネテス』が再放送されている。これを観た元JAXA職員なる人物が、SNS上で「何処が面白いんだ」と言い、その理由に設定の「考察が無茶苦茶」であることを挙げ、物議をかもした。つい苦笑してしまうが、でも彼の意見に反論するのは容易ではない。

なぜなら、彼の意見は「批評」のつもりなのか、それとも単なる「感想」に過ぎないのか、非常に曖昧だからだ。

作品の評価基準には、主に以下の4種類があると僕は考える。

①「快・不快」=主観
②「当否」=客観
③「好悪」=主観
④「面白い・つまらない」=客観

①「快・不快」は、三好の狭霧に対する「ウザキャラ」感情のようなものだ。

②「当否」は、「正しい・間違い」であり、元JAXA職員の「考察が無茶苦茶」はこれに該当する。

③「好悪」は、「好き・嫌い」であり①に近いが、より作品の最終的な評価に近い。

④「面白い・つまらない」は③をより客観的に判断したものとなる。

①と③は主観だから「感想」に該当し、②と④は客観だから「批評」になる。

元JAXA職員の「考察が無茶苦茶」は、実は②「当否」というよりも、職業への誇りから来る①「快・不快」の主観的な感情である可能性が捨てきれない。

「何処が面白いんだ」というのも、言葉足らず(あるいは言わなくていいこと)で、③「好悪」に類するかもしれない。

すると、彼の意見は「批評」というより「感想」に近くなる。

そのため、いくら「フィクションなんだから……」と周囲が客観的な説得を試みたところで、馬の耳に念仏だろう。「感想」の場合、他者に対して評価基準の説明責任は発生しないからだ。

「感想」である限り、さっきも述べたように、何を言おうと自由ではある。しかし、僕がここで問題としたいのは、彼自身が自分が何を言っているのか、区別をつけられていないのではないか、ということだ。

「主観・客観」② 『聲の形』

彼の感想に、正しい・間違い(=当否)』と『面白い・つまらない』は切り離して考えるべきだ」との反論を見かけた。「殊にSF作品において、設定がいくら荒唐無稽でも、面白いものは面白い」とのことだ。万一、元JAXA職員の意見が「感想」ではなく、「批評」を意図していたのなら、この反論は有効かもしれない。

僕はこの理屈を、SFの設定のみならず、できるだけ、あらゆる作品におけるキャラクターの言動や性格に関しても当てはめたいと考えている。そうすると、もちろんこの理論は万全ではなくなり、例外も出てくるのだけど。

ある時、人とアニメについて話していて、頭を痛めたことがある。

相手は、あるタイプのキャラクターが嫌いだと言った。「もともと主人公たちの邪魔をしてきたくせに、あとから仲間になるキャラがムカつく」とのことだった。その時の僕は、まさに狭霧の悪口を言われた真桑の心境になった。僕はやはり「ふーん」としか返事ができず、それで不満を覚えたらしい相手に、「共感を求められても困る」と返した。そもそも、作中でその過程がどう描写されているかによっても事情は変わってきて、一概に評価できるものでもない。

すると相手は映画『聲の形』を引き合いにだし、「じゃあ、あの主人公は許せるのか」と威圧的に迫ってきた。僕の頭は真っ白になった。

『聲の形』の主人公は、小学生時代は常にグループの中心的存在だった。いつしか聴覚に障碍のある少女が転校してくると、彼女をいじめるようになる。それが大問題になると、立場は一転し、今度はいじめの被害者になる。
時は流れ、高校生になった主人公は、過去の罪悪感から、様々な自罰的行為に走る。やがて彼の周囲に、小学時代のいじめ問題の当事者たちが集うと、群像劇のようになり、過去の出来事に対して、それぞれの立場から向き合いはじめる。

ここで問題となるのは、『聲の形』は「誰が絶対的に悪く、誰が絶対的に正しいか」を二元論的に提示してくる作品ではないことだ。問題をめぐって、鑑賞者が客観的に、「当否」についてあれこれ考えることに意義がある。

会話の相手は、先ほどまで「快・不快」の主観レベルの話をしていたのに、突然「当否」の話にすり替えているのだ。これはおそらく無自覚で、「快・不快」と「当否」の基準をごちゃ混ぜにして、同一平面上に並べてしまっているのではないかと思われる

このときの相手の落ち度は、「不快だから許せない(許せないから不快)」という完全な主観による「感想」を、一方的に押し付けてきたことだ。何度も言うように、「感想」は自由だけど、人と議論を交わしたいのなら、客観による「批評」レベルにまで高めてからにするべきだ。

「許す・許さない」

閑話休題。

「許す・許さない」という話になると、作者は難しいだろうな、と近頃よく思う。人の行為はどこまでが許容可能か、絶対的な基準がない。そのため、作品の主人公たちが誰かを許したとしても、鑑賞者の中には納得できない者も必ず現れてくる。仕方のないことだ。(じゃあ絶対に許さないのが正解かと言うと、そうでもない。プリキュアが敵幹部を許さず、見殺しにしたことで、ファンの間で賛否が分かれたこともあった。これも、プリキュアにはプリキュア流の「真面目さ」を求められている証拠だろう)

ここでも主観と客観は分けて考えるべきで、例えば「自分の感情的には許してやってもいいが、客観的にはもしかしたら許すべきではないかもしれない」といった見方をする能力が求められる。

(ところが『鬼滅の刃』は、『聲の形』とは好対照に、一元的な善悪基準が敷かれた世界観で、お話としてかなりわかり易くなっている。人気の理由のひとつだろう。安直との批判もあるだろうが、実際に描くのは難しく、作者の中で相当な試行錯誤があったことをうかがわせる。機会があったら記事にしたいと思っている)

「ウザキャラ」① 『PSYCHO-PASS サイコパス2』

TVアニメ『PSYCHO-PASS サイコパス2』は、いわゆる「ウザキャラ」の霜月美佳の存在によって、駄作の烙印が押されがちだ。これも僕からすれば、短絡的な見方だと言わざるを得ない。

舞台は、人間のあらゆる心理状態や性格傾向の計測を可能とし、それを数値化する機能を持つ「シビュラシステム」(以下シビュラ)が導入された西暦2112年の日本。人々はこの値を通称「PSYCHO-PASS(サイコパス)」と呼び習わし、有害なストレスから解放された「理想的な人生」を送るため、その数値を指標として生きていた。
その中でも、犯罪に関しての数値は「犯罪係数」として計測され、たとえ罪を犯していない者でも、規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれていた。
そのような監視社会においても発生する犯罪を抑圧するため、厚生省の内部部局の一つである警察組織「公安局」に属する刑事は、シビュラシステムと有機的に接続されている特殊拳銃「ドミネーター」を用いて、治安維持活動を行っていた。
本作品は、このような時代背景の中で働く厚生省公安局刑事課一係所属メンバーたちの活動と葛藤を描く(Wikipedia|太字=筆者)

理由をいくつか挙げていく。

まず、「面白い・つまらない」の客観的評価の理由に「快・不快」の主観を持ってきている。この時点でもってのほかだ。

次に、「狭霧くんを単純に意地悪って言っちゃうのは読み込みが浅すぎない?」と同様の問題だ。視聴者から霜月が嫌われる要因は様々だが、極言すれば、最終的に謝罪も改心もしなかったことに尽きる。「ウザキャラ」に要求される「真面目さ」が全うされなかった典型例のため、三好タイプの視聴者たちからは「許せない」と反感を買って当然だ。

ただ、狭霧と霜月の違いは、狭霧の「意地悪さ」が後輩を思う気持ちからくるのに対し、霜月の「ウザさ」は、実際に視聴者から嫌われることを意図して描写されている。つまり、霜月は「ウザくて正解」という特例キャラなので、彼女を嫌うこと自体が即「読み込みが浅い」ことに繋がるわけではない。

では何が問題となるかというと、彼女が「ウザキャラ」として描かれなければならなかった必然性を、物語の中から読み取れるかどうかだ。その努力を怠らなかった者だけが、『サイコパス2』を駄作と評してもいい。

結論から言ってしまうと、霜月はシビュラシステム下の監視社会における「一般市民」の代表を一任されたキャラクターである。『サイコパス』シリーズは第1期の完成度が高く、やるべきことはほとんどやってしまった感がある。そのため、続編からは第1期でやり残したことを模索した苦労が垣間見える。そこで思い至るのが、本作は舞台が監視社会なのに、刑事でありながらシビュラに疑念を抱くこととなるヒロイン・常守つねもりあかねをはじめ、その部下であり「潜在犯」でもある執行官たちや、敵対する犯罪者たちといった、シビュラ社会の「異端者」の目線でしか、ほとんど語られていなかった点だ。

そのため、ルーツも思想も、常守とは正反対な(「正常」な)霜月が、常守と同じポジションに配置されることで、二人の対称性及び、常守の「異端」さが浮き彫りになっていく。最終的に、「シビュラシステムの秘密を世間に公開した際の国民の反応のモデルケース」として連行され、真実を明かされた霜月は、やはり常守とは反対に、シビュラへの盲従の姿勢を示す。その様から、シビュラからは「理想的市民」とまで評される。これは監視社会において、人々がどこまで堕落可能かのモデルを、視聴者に示唆している。

そのような霜月が、謝罪も改心もないにもかかわらず、システムから優遇されることで、第3期では昇進までしている点などは、気は効いていないかもしれないが、皮肉はよく効いている。監視社会は頑強で厄介でなければならないため、かえってリアリティが感じられてよい。

しかし、視聴者からあまりにも理解が得られなかったためか、第3期ではマイルドにされ、半ばギャグ要員のような扱いを受けているのは、ちょっとした喜劇(あまり笑えない)だ。

「ウザキャラ」② 『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』

最後に、ここから先はおまけだと思ってもらっていい。

一時期、「ちいかわ」と検索すると「無能」などとサジェストされた時期があった。Twitterの『ちいかわ』公式アカウントにも、ちいかわ(主人公名)をバッシングするかのようなコメントが散見された。

僕は『ちいかわ』の熱心な読者ではないが、ちいかわを「ウザキャラ」と単純に括る風潮には、新自由主義社会のとても危険な因子を感じるため、ここでは厳し目に書かせてもらう。もちろん、ちいかわの悪口が、ちゃんとしたファンの仕業ではないということは理解している。

霜月もそうだが、「仲間の足を引っ張るキャラクター」への鑑賞者のストレスというのは計り知れない。そのようなキャラクターに求められる「真面目さ」として、やはり向上心があり、成長を遂げたり、または何か突出した才能が要求される。それがないとなかなか「許されない」。

ではその「真面目さ」がない場合どうだろう。そのようなキャラクターは存在するべきではないのか、というと、僕は少し違うと思う。現実にも、何をやってもうまくいかなかったり、精神状態や病気によって、そもそも何もすることができないというような人たちがたくさんいる。そのような人たちに向かって、存在を否定するようなことはあってはならない。しかし、現実にそれは起きてしまっている。2016年にやまゆり園で起きた、相模原障害者施設殺傷事件は記憶に新しい。

ちいかわは初め、現実がうまくいかず思い悩むような人たちの逃避先として誕生したキャラクターだ。だからちいかわが、あたかも「無能」のように描写されるのは、当初のコンセプトに則っているため、何の問題もないはずなのである(物語途中から、結果はよくなくても向上心は発揮し始めるのだが)。むしろ、読者(社会)から要求される「真面目さ」から解放された、「物語」のアンチテーゼのような趣さえ感じられる。

ちいかわに向かって辛辣に怒りを向ける人は、おそらく現実でも他者への想像力に欠け、自己責任論に毒されていることだろうから、気をつけたほうがいい。『ちいかわ』は時折不穏で、予期せぬ事態も発生するが、基本的には互いに助け合う、社会的責任で成立する世界である。ある日突然、自らが発した「無能」という言葉が自分に帰ってきて、誰も助けてくれないような事態を望む者はいないだろう。

そんなわけで、ちいかわが「ウザキャラ」として描かれるのにも、それなりの意図がある。真に批判されるべき「ウザキャラ」というのは、作者が自覚していないというパターンだろう。例えば、『おジャ魔女どれみ』シリーズのあいこちゃんのお父さんなどがそれに該当する。彼は客観的に見て、共働きにもかかわらず亭主関白で、身勝手な理由で離婚をした挙句、小学生の娘に家事を任せるという、結構ロクでなしな父親なのだけども、それ自体はいいとして、制作スタッフは無反省にも、「男の悲哀」や「家族愛」のドラマとして、そのキャラクターを甘美的に描いてしまいがちなのである。

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