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【エッセイ】疑問符「?」についての疑問 〜お前はトリコ?〜

本稿は「お前はトリコ?」を知らない人にも興味を持ってもらえると思う。もちろん,そうしなければいけないんだけど。

まず,「お前はトリコ?」は本当に誤植なのか。いまだに納得のいかない筆者は,個人的に検証を試みて,反駁はんばくの記事を企画していた。

ところが,待っていたのは思いもよらぬ,日本語表現の混沌カオスだった……。

今回はそのあれこれを,順を追って書いていきたい。

1. 「お前はトリコ?」とは

画像4

上の画像を起源とした,一種のインターネット・ミームと言ってしまえば理解が早いと思う。『トリコ』という漫画内の一コマだ。
(画像:島袋光年『トリコ』第8話,集英社)

登場人物(=ココ)のセリフの「お前はトリコ?」が,ミーム自体の代名詞にもなっている。

一体この画像のどこが,一部インターネットユーザーを魅了したのか。それには主に3つの理由がある。

①「捕獲レベル」の低さ。
②ココの自信に満ちた表情。
③「お前はトリコ?」というセリフの不自然さ。

これら3つの要素が化学反応をおこした結果,ネタとして広まった。どれかひとつでも欠けていたら,ミーム化はしなかったと思う。でも本稿ではの内容だけ理解していれば,特に問題はない。作品の用語まで説明すると,だれてしまう。気になる読者は自分で調べてみてほしい。

以下のサイトに詳しい。
 ↓ ↓ ↓
ピクシブ百科事典https://dic.pixiv.net/a/お前はトリコ%3F

では,「お前はトリコ?」の何が不自然なのか。

ここでの「トリコ」は話し相手の名前で,本来はこのような趣旨だ。

→「(私の進捗はこれくらいですが)あなたはどうですか? トリコさん」

でも,「お前はトリコ?」という文面のせいで,次のようにも読めてしまう。

→「あなたはトリコさんですか?」

作品を知っている人からすれば,ココとトリコが既知の間柄だと了解しているから,わざわざ尋ねること自体おかしいとわかる。そうじゃなくても,(表情とも合致しない)唐突な質問には,奇妙な感覚がのこる。この違和感が,画像に余計なおかしみを加えてしまった。

ミーム化の後,単行本2巻でその箇所は,以下のように修正された。

画像3

セリフが「お前は? トリコ」に変化しているのに気づくだろう。

このことから,「お前はトリコ?」は誤植だったと解されるようになってしまった。

 1.2. 経緯から見えてくる文脈の問題

そもそも,筆者はなぜこんな古いネタを取り沙汰にするのか。それは筆者が,この画像がミーム化していく過程を,リアルタイムで観察していたことに起因する。

どういうことかというと、ピクシブ百科事典にも明らかなように,③「お前はトリコ?」というセリフの不自然さが,ミーム化の最初のきっかけみたいに今では認識されている。でも筆者の認識では,それは最後のきっかけだったということだ。

ミーム化の経緯は極めて重要なため,きちんと整理しておきたい。

まず,筆者が当時見ていたサイト群は潰えてしまったけど,以下に当時の感想がのこったサイトがある。

スクリーンショット 2022-02-18 11.59.14

2011年当時,①「捕獲レベル」の低さに言及されることはあっても,台詞については読者は気にしていなかった。違和感をもつ読者もいたかもしれないけど,わざわざ言及するレベルではなかった。それは以下の2012年の記事でも同様だ。

その後,例のコマが画像としてウェブ上に転載されたことで,転機は訪れる。

このとき,一コマだけが切り抜かれたことで,前後の文脈が欠落し,セリフの意味自体も崩壊してしまった。

はじめは①「捕獲レベル」の低さをネタとする目的だった画像が,結果的に③「お前はトリコ?」というセリフの不自然さをも浮かび上がらせた,というのが事実だ。

スクリーンショット 2022-02-18 14.10.08

2014年には,ミームの主眼がセリフに置かれているのがわかる。

ここからわかるのは,前後の文脈さえ把握されていれば,「お前はトリコ?」の表現も,誤植と呼ばれるレベルにまで発展しなかったということだ。

 1.3. 倒置法+疑問符

画像が転載されたとき,「何がおかしいのか」という議論になると,セリフを指摘する者が多く現れた。

そのとき,「セリフは別におかしくない」とする一派も少数いて,筆者も同じように思っていた。でも流れには逆えず,今では立派にセリフによるミームとして取り上げられている。そのため,これに反駁するような記事を書いたら面白いのではと,軽い気持ちで考えていた。

筆者の言い分はおおよそ次のようなものだった。

まず,「お前はトリコ?」は,本来「トリコ(=主語)お前は(どうなんだ)?」とするべきところの倒置法だということ。そして,倒置法+疑問符「?」の表現は,小説などを読んでいれば特に珍しくは感じない。

ただし,倒置法+疑問符が用いられるとき,多くは読点「,」が併用される。「お前はトリコ?」の場合ならこうなる。

「お前は,トリコ?」

このように表記されないと,疑問符がはじめの「お前は(どうなんだ)」にかかっていることが伝わりにくい。でもジャンプ作品では,ナレーションやモノローグ(心の声)も含む,セリフ全てにおいて,句読点が排される習慣がある。

そこで,改行に注目したい。吹き出しの中はこうなっている。

 ト お
 リ 前
 コ は
 ?

リズム感のために,漫画家はセリフの区切りにもそれなりに気を使うはずだ。ここの改行は,読点の役割を意図したものではないか。こじつけみたいだけど,はじめは実際にそれで通用していたのだから,あながち間違ってはいないと思う。

次に,日本語で書かれた文芸作品の中から,倒置法+疑問符の表現を見つけて例示すれば,反駁としては十分なものになるだろう。日本語としての不自然さはあっても,間違いとまでは言い切れないはずだ,と。

そう考えていた。

ところが現実は甘くなかった。見つからないのだ。

見つからないどころか,さらなるぬかるみにまっていくことになる。

2. 数々の疑問

倒置法+疑問符の例は,日本文学からは見つからなかったけど,翻訳作品には見られた。

「あなただって,とても見抜けなかったでしょうに,若旦那?」
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(下)』新潮社,原卓也訳,1978年,p.250)

「それじゃ,お前は俺の魂の救済のために努力してるってのか,悪党め?」
(同p.346)

「論告の冒頭,おぼえているでしょう,われわれはみんなフョードル・カラマーゾフと同じだと言ったのを?」
(同p.533)

「あなたはナザリエフを,ほら,プロホル・イワーノウィチをご存知ですか,メダルをつけたあの商人ですよ,陪審員の?」
(同p.601)

著書が偏ってしまったけど,こんなに頻出する。もちろん,外国語と日本語では事情が異なるから,除外しようとも考えたけど,比較のため,一応控えておいた。

でもやっぱり,最初から日本語で書かれた作品から探さないと,あまり説得力がないと思った。

苦労の末に見つけたのは,漫画の中だった。

「なんですか,これは?」(山本直樹『ビリーバーズ Ⅰ』小学館 2000年 p.154)

でも,山本直樹にこだわりがあるのかと言うと,そうでもなさそうだ。

「食べられますか? これ」(同p.179)
「本当に見えました? 『川』」(同p.181)

この2つは修正後の「お前は? トリコ」と同じ構文だ。表現にばらつきが見られる。その場の気分で書いていると思われる。

こうして探していくうちに,決定打に当たらないどころか,今度は別のことが気になって仕方なかった。

そもそも疑問符を使わない作家がいるということだ。

筆者が観測した範囲では,夏目漱石,武田泰淳,星新一,筒井康隆などがそれに当たる。

ここで,武田泰淳『ひかりごけ』から会話を抜粋する。

西川 船長。おめえは,五助や八蔵のこと考えたことあるか。
船長 考えねえわけにはいかねえさ。おらたちが喰った人間のこんだからな。
西川 そんで,自分がおそろしくねえだか。
船長 おめえ,俺がおそろしいと言えば気がすむんか。
西川 おらのこっちゃねえ。おめえがどんな気持ちかっつうこった。

(初出:「新潮」昭和29年3月号)

二人の人物による,質問と応答のやりとりから,疑問符が見事に排されている。

このことから筆者は,もともと日本語は疑問符を必要としない言語だったということに思いいたった。西川と船長の話す言葉が標準語ではない,つまり土着言語なことも,その気づきを深くした。文章のうえでも,かつての文語体は,文法が明確に定められいて,疑問符を用いずともそれが疑問文であることを示せたのではないか。

欧文が,疑問符に限らず,句読点や括弧,感嘆符「!」といった約物と共に発展してきたのに対して,日本語はそれらをルーツに持たない。日本語と約物との付き合いは,まだまだ歴史が浅い。

それが具体的にいつからなのか,というのが疑問のひとつだ。おそらく明治時代の,日本語改革の頃なのだろうけど。いつ誰がどこで,一番最初に疑問符を取り入れたのだろう。

もうひとつの疑問は,それ以降どのように発展してきたのか,という点だ。今の日本語表現は,むしろ疑問符なしでは成り立たないほどになっている。しかもそれが,文章のうえだけでなく,発話のイントネーションのレベルでもそうなっている。この文章の疑問符と,イントネーションの疑問符が,互いにどう影響しあってきたのかも気になるところだ。

こんな具合に,「お前はトリコ?」を解決するどころか,疑問符についての疑問が解消しきれなくなってしまった。読者も一緒に悩んでみてほしい。

 2.2. 外国語の場合

ここで遡って,「お前はトリコ?」構文(倒置法+疑問符)について,疑問符の先達である外国語と照らして考えていきたい。

ロシア語

再び『カラマーゾフの兄弟』に戻る。

仮にロシア語が,英語と似たような構文を持つとしたら,「論告の冒頭,おぼえているでしょう,われわれはみんなフョードル・カラマーゾフと同じだと言ったのを?」は,次のような疑問文に例えられるのではないだろうか。

Do you speak Japanese?”

これは「あなたは日本語を話しますか?」というふうに訳したくなるけど,英語の語順は主語・動詞・目的語が基本だから,固く訳すとこうなる。

→「あなたは話しますか日本語を?」

何が言いたいかというと,原卓也は,「論告の冒頭,おぼえているでしょう〜〜?」の箇所を,原文の語順に忠実に訳したのではないか,という推察が可能ということだ。

すると,「あなただって,とても見抜けなかったでしょうに,若旦那?」も,
「それじゃ,お前は俺の魂の救済のために努力してるってのか,悪党め?」も,
原文でもそのままの語順である可能性が高い。

それはつまり,ロシア語では「お前はトリコ?」構文が当たり前ということを意味する。

もちろんこれは憶測で,筆者は語学堪能ではないし,経済力もない。だから原文まで当たるエネルギーがないことも,述べておかないといけない。その方面に明るい方がいたら示唆をお願いしたいと思う。

でも,別の人の訳でも,この説が補強されそうな表現があったことは付記しておく。

「あのちぢれっ毛は誰だい,ほらいまこっちをのぞいた?」
(ドストエフスキー『罪と罰(上)』新潮社,工藤誠一郎訳,1968年,p.396)

ドイツ語

ドイツ語に関しても,筆者は無知だし,資料も乏しいけど,少し気になる点があった。

「ごきげんよう,ハンス」(ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』新潮社,高橋健二訳,p.64)
「そうだね,ギーベンラート」(同p.84)

これらは和訳にあたって,わざわざ語順を並べかえるほどじゃないだろうから,原文もこの通りだと想像する。でも単なる呼びかけや相づちだから,厳密な倒置法ではないかもしれない。「ねえ,ワタナベ君」を英語で"Hey, Watanabe"と言ったりするのと同じくらいの感覚ではある。でも,読点を挟んで相手の名前を指示する構文は成立することがわかる。

(もっとも、それを言ったら「お前は(どうなんだ),トリコ?」とした場合の「トリコ」は,呼びかけということにもなる)

でも,これらが疑問文となると,次のようになる。

「だが,きみは? ギーベンラート」(同上p.83)
「ねえ,どうだい? 兄さん」
(ヘッセ『美しきかな青春』,『少年の日の思い出 ヘッセ青春小説集』所収,草思社文庫,岡田朝雄訳,2016年,p.144)

欧文は約物と共に発展してきたから,文法上の規定はそれなりに厳しいはずで,これらが原文通りなのだとすると,ドイツ語ではお前は? トリコ」構文が正解ということになる。「お前はトリコ?」にはならない。

  2.2.2. 英語 主語・語順・省略

よく考えたら,『トリコ』の英語版コミックではどうなっているのかをまず確かめるべきだったかもしれない。でも筆者にはそのすべがないから,これも知り得る人がいたら教えてほしい。

その代わり,筆者は趣味で『チェンソーマン』の英語版コミックを集めているから,原文(日本語)と英訳を照合する作業ができる。

読んでいてまず気になるのは,主語の問題だ。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

川端康成『雪国』の冒頭の一文だけど,この英訳についてはよく議論になる。主人公は汽車に乗っているわけだけど,主語を「私」とするか「汽車」とするかだけでも,ニュアンスがだいぶ変わってきてしまう。ニュアンスが固定されてしまう,と言ってもいい。

英語では,基本的に主語が欠かせない。主語がない動詞は,多くの場合,命令形になってしまう。日本語との大きな違いのひとつだ。英語版の『チェンソーマン』を読んでいると(というより眺めていると),原文では省かれていた主語の多さが目につく。

例えばある人物が錯乱して,次のように繰り返す場面がある。

「どうしよう」
「ど〜しよう!?」
「ど〜しよっ!?」

これが英語版だと,次のように一律に表記される。

"WHAT DO WE DO?"
"WHAT DO WE DO?!"
"WHAT DO WE DO?!"

これについてどう感じるかは,英語話者じゃない筆者がどうこう言えることじゃない。

ただ,「お前はトリコ?」だとどう訳されるのかは気になる。

“How are you, Toriko?” と仮定する。一文の中に,〈you〉と〈Toriko〉が混在して,主語が重複する形になる。これは正しい英語なのだろうか。

ちなみに,誤解されている方の“Are you Toriko?”だとすると,こちらは何も問題はない。

“He is Toriko.”=「 彼はトリコさんです」のようなSVC(第2文型)と同じで,主語〈you〉と補語〈Toriko〉がイコールで結ばれるのは自然なことだからだ。

ここで,“How are you, Toriko?”のような,主語が重複するセリフを『チェンソーマン』から探してみた。まずひとつ,疑問文ではないけど発見できた。

“DON'T YOU DIE, AKI...”

これは原文だとこうなっている。

「アキ君は死なないでね…」

ここでの興味深い点は,原文が「死なないでね,アキ君…」というような倒置法になっていないにもかかわらず,英訳では“AKI”がわざわざ文末に置かれているところだ。英語の語順のルールなのかもしれない。では疑問文だとどうなるのか。

“YOU LOVED HIM TOO, DIDN'T YOU, DENJI?”

あった……。この場合は DIDN'T YOU?の箇所が付加疑問文だ。しかもこれも原文ではこうなっている。

「デンジ お前も好きだったろ?」

「デンジ」と相手の名前が文頭にあるのに,英訳では文末に,しかも疑問符の前に置かれる。(この点で,「ねえ,どうだい? 兄さん」のような,ドイツ語のルールとの差異が生じる。)

この例は,逆説的に言えば,“YOU LOVED HIM TOO, DIDN'T YOU, DENJI?”という英文がはじめにあったときに,「デンジ お前も好きだったろ?」というふうに訳す方が,日本語としては自然ということを示唆してはいないだろうか。

そういう意味では,だから「お前はトリコ?」はかなり英語的な表現かもしれない。この語順が,もしはじめから「トリコ お前は?」だったなら……。

でも反対に,ある一点においては,どうしても日本語から離れられていない。

例えば上の“YOU LOVED HIM TOO, DIDN'T YOU, DENJI?”の場合。

これは直訳すると「お前も彼のことが好きだった,そうじゃないのか,デンジ?」となる。でも原文は「デンジ お前も好きだったろ?」だから,「彼のことが」が省略されている。日本語の場合,省略されていたり,語順が不規則だったりしても,前後の文脈から意味が伝われば,どのようにでも表現できる。

でも英語では,「誰(主語)が何について」という部分を,そのたび明示する必要がある。

「お前はトリコ?」は,「(お前の)進捗はどうなんだ」という「何について」の部分がまるごと抜けている。語順の点では英語的なのに,省略の仕方が日本語のそれというのが,ひとつの混乱の元と言える。

3. イントネーションの疑問符

ところで読者は,「お前はトリコ?」を読むとき,どのように頭の中で発音しているだろう?

「お前はトリコ(⤴︎)」

というように,語尾をあげる人がほとんどなのではないだろうか。

では「お前は? トリコ」の場合。

「お前は(⤴︎) トリコ」

と発音したくなるに違いない。これは現代的に,疑問符が,その文章のイントネーションを指示する記号として認識されている証拠だろう。もしこの認識がなかったら,「お前はトリコ?」を「お前は(⤴︎) トリコ」と読むことも可能で,違和感も減ったと思う。

いや待てよ,と思われるかもしれない。もともとの英語の発音ルールが,基本的にその通りなのだから,日本語もそうあって当然だ,と。

でも,約物との付き合いが浅い日本語で,約物についてのルールがそれほど定まっているようには思えない,というのが私見だ。「こう使うのが正しい」というようなマニュアルみたいなものは見ても,「こう使わなければならない」というルールブックはほぼお目にかからない。中でも割と厳しめな句点「。」や括弧に関しても,「〜〜。」というように,括弧内の末尾に句点が置かれる表現は珍しくない。セリフが括弧に囲まれないパターンもある。

ところで,筆者が本稿で読点を「、」ではなく「,」と表記していることにお気づきだろうか。これは「公用文作成の要領」に従ったものだ。

昭和26年(1951年)に「公用文作成の要領」が第12回国語審議会で議決、建議され、翌27年(1952年)に内閣から各省庁に通知された。この要領において公文書は横書きとし、句読点は「,。」を用いるよう定められた。公文書である日本産業規格は横書きであり、句読点に「,。」を用いている。教育の分野においては「,。」が「学習指導要領における表記」であると定められており、横組みの教科書(社会、算数・数学、理科、英語、音楽など)はほとんどがこれに倣っている(国語、書写及び書道は縦組みなので「、。」を使用)。

どっちでもいいよ,という声が聞こえてきそうだ。筆者もそう思う。正直,変換が面倒なだけだ。読点「,」については,このように,どの記号を使うかという議論はあっても,実際に打つ箇所は個人の裁量で,フリーダムなのが現状だ。

疑問符を使わない作家がいるように,疑問文には必ず疑問符をつけなければならないというルールもない。

それに,「いつ?」と尋ねるときも語尾をあげるだろうけど,英語では“When〜?”だから,語尾はあげない。だから英語の発音のルールに準拠しているわけでもない気がする。

また,今では疑問文じゃなくても疑問符をつける文化も生まれているらしい。

画像7

上は現在連載中の『【推しの子】』第69話の一コマだ。このセリフは文字通り,「もっと私を褒めて」という意味で発せられている。セリフは次のように続く。

「2万人だよ!? 撮影も編集も全部ウチでやって!!」
「あの手この手でチャンネル伸ばしてきた私をもっと褒めてぇ!?」

画像の人物が,自らのユーチューブのチャンネル登録者数が2万人に達した成果を,仲間に褒めてもらおうとしているシチュエーションだ。

端的に言って疑問文じゃないんだけど,疑問符がついていることで,語尾をあげて発音しているように読める。これは疑問符が発音指示記号として認識されている,顕著な例だろう。

もちろん,言外のニュアンスとして「どうして褒めてくれないの?」と問いただしているようにも受けとれる。でもそれは,発話のレベルでは,語尾をあげて疑問文であることを表現しなければ,相手に伝わらない。やはり発音ありきの表現だと言える。

 3.2. 鶏がさきか卵がさきか

このイントネーションの問題は,「お前はトリコ?」が誤読されてしまう大きな要因のひとつだろう。だから最後に,疑問文の語尾をあげる習慣が,日本語ではどのように広まったのかを考察してみたい。

結論から言うと,正直さっぱりわからない。でも「お前はトリコ?」の汚名を挽回するためには,欠かせない作業だ。

かつての文語体は,英語のごとく文法の規定が厳しかっただろう。なおかつ約物もなかったから,疑問符を使わずとも疑問文を書ける構文があったはずだ。でも昔の人は,口で話すときにも文語体で話していたわけではないと思う。じゃあ発話で疑問を表現するときに,語尾をあげていたのだろうか。

例えば武士が「お主の刀はなまくらでござるか(⤴︎)」と言うようなことはあったのか……。これについてもやはり,知恵や知識をお持ちの方がいたら示唆願いたいと思う。

ここで問題にしたいのは,口語体が開発されて以降のことだ。

そこでは以下の要素が互いに絡んでくるのではないか,と憶測する。

①もともと,語尾をあげる表現とあげない表現が,会話の中に混在していた。
②文章上で疑問文を表す際に,イントネーションに関係なく疑問符が用いられるようになった。
③作家によっては,疑問符を打つ場面と打たない場面を使い分けた。

①について言えば,今でもそうだ。例えば漫才のツッコミにおける「なんでやねん」や「〜〜じゃねえのかよ」というように,方言や感情が昂じている場合。

他にも値段を聞くときに,「これはいくらですか(⤴︎)」と発音した方が伝わりやすいけど,語尾をあげなくても通じないわけじゃない。

②は,先ほどのロシア語の表現を振り返るとわかりやすい。

「あのちぢれっ毛は誰だい,ほらいまこっちをのぞいた?」

ロシア語では,この原文の文末をあげて発音するルールがないとも言い切れない。でも日本語にしたとき,この文末をあげるのは不自然だ。強いて語尾を上げるとしたら,「あのちぢれっ毛は誰だい(⤴︎)」の箇所であげるのが自然だろう。なのにこの表現が許容されたのはなぜか。

それは日本語の疑問符がもともと,その文章が疑問文であることを示す機能しか持たなかったことを意味するのではないか。でもさっきも言ったように,疑問符を使わない日本人作家も多数いて,話し方や文脈によって疑問文だと伝わる。そしてそのセリフの多くは,語尾をあげて読まなくても,別に違和感がない。それでも疑問符が多用されるようになった背景には,このような海外文学の影響があるのではないか。

③は,江戸川乱歩や,初期の澁澤龍彥作品がこれに該当する。読む限り,明確な基準というものは見えてこない。でもひとつの傾向として,疑問符がないと疑問文だと理解しにくい文章に使用されるパターンもある。

これら3つの要素を,互いに関連づけてみる。

まず,会話の中に「変じゃない」という表現がもともとあったとする。これを次のように発音すると疑問文になる。

「変じゃない(⤴︎)」

でも,語尾を下げると否定を意味する。

「変じゃない(⤵︎)」

これを,疑問符を使わずに疑問で表したい場合,

「変じゃないかな」

というふうに書く必要がある。でもこうすると,発話には存在する「変じゃない(⤴︎)」という表現が,文章上では使えなくなってしまう。

そこで疑問符の有用性が着目されて,部分的に使われだした可能性がある。

でも反対の可能性もある。

まず海外文学の影響で,疑問符が見境なしに使用されるようになった。

そこで,文章上において「変じゃない?」というような表現が生まれてきたとする。それを実際に発話しようとすると,「変じゃない(⤵︎)」だと否定の意味になってしまう。そこから,疑問文は語尾をあげる動きが芽生えてきたのではないかという可能性だ。

鶏がさきか卵がさきか。疑問符がさきかイントネーションがさきか,のジレンマだ。

いずれにせよ,追い討ちをかけたのは,イントネーションに関係なく疑問符を使う文章の普及ではないだろうか。そこで語尾をあげる表現と,あげない表現の区別が薄れていったとしても不思議じゃない。

それが結果的に,疑問符のついた文章は語尾をあげて読むもの,というふう習慣化したと考えることも,できなくはないのではないか……?

もちろん例外もある。筆者が多用する「〜〜だろうか」も文章上の疑問文だけど,「だろうか(⤵︎)」と読む方がしっくりくる。また,個人的な感覚で言えば,「〜〜だろうか?」と疑問符がついていても,やっぱり「だろうか(⤵︎)」と読みたくなる。このような例外も存在するから,余計にややこしい。

そんなわけで,日本語はよく言えば柔軟だけど,悪く言えばとんでもなくカオスだ。だからこそ面白いわけだけど。(完)

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