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復活の証拠は命日の語源にあった

本日は亡くなった祖母の月命日という事もあり、命日について書いていこうと思います。

聖書における「復活」は実は「命日」と深く関係しています。
まずは僕の実家が浄土真宗・西本願寺なので、浄土真宗の命日の捉え方について書いていこうと思います。
この命日についてなんですが、僕の考察は下記の浄土真宗とは異なります。
以下、浄土真宗の命日について深くご存知でない方もいらっしゃると思いますので詳しく書いていきますね。
           

命日の由来(忌日とは)


なぜ人が亡くなった日の事を命日と言うようになったんでしょうか。命日は、古くは忌日(きにち・きじつ)と呼ばれていました。
忌は、「恐れはばかる」という意味があります。恐れはばかるには「畏敬」の意味が含まれています。
ですので、忌日とはお亡くなりになった人を畏敬の念を込めて敬う日と考えられます。
余談ですが、三回忌や七回忌などの祥月命日で「忌」という漢字が使用されるのもこういった背景があります。
古来の人は、忌日は故人を悼む上で、忌日を物忌の日(ものいみのひ=物欲から離れて心身を清める日)として、華美や贅沢なことを控えて過ごしていました。
それが、室町時代頃から忌日の代わりに命日という言葉が使用されるようになりました。

命日の語源(忌日が命日に変わった理由)

忌日の代わりに、命日が使われるようになった理由も諸説あります。

浄土真宗などの称名念仏(南無阿弥陀仏と唱える事で救われるという考え方)を信じる僧侶等の念仏者が「忌」から「命」に代えるように努力したという説があります。
浄土真宗の僧侶に代表される念仏者は、死者への供養は贅沢を差し置くなどという行為ではなくお念仏を称える(となえる)ことだと考えています。
物忌は、不要だったわけです。だから忌日(物忌の日)とは呼ばなかったわけです。
忌日と呼ばない代わりに、命過日(めいかにち)と当初、呼ぶようになったそうです。
文字通りに解釈すると、命が過ぎる日という事です。しかし、命過日の命には「いのち」という意味ありますが「いいつけ」という意味もあります。
念仏者にとっての、死ぬ日は阿弥陀如来の「お浄土へ来てください。」という命に、「今から往(い)きます」と心も体も従う日です。

そこから、「忌」の代わりに「命」が使われ始めたと言われています。

そして、その命に「過(すぎる)」が加わることで死ぬ日とは「阿弥陀如来の命が私を通り過ぎる日」となります。

そのような理由があり、念仏者の間で忌日ではなく命過日が使われるようになったとされています。

その後、命過日という呼び方は時代とともに「過」が省略されるようになり命日という呼び方が定着し現在に至ったとされています。

これが浄土真宗の「命日」の語源となります。
しかし、覚醒者の方はご存知だと思いますが、「浄土真宗」を含めた全ての「宗教」は悪魔崇拝です。

それでは「聖書」を信仰している「キリスト教」も悪魔崇拝なのでは?と思われるでしょうね笑
そうです、キリスト「教」は悪魔崇拝なんですよ。
しかし「聖書」は悪魔崇拝ではありません。通読していただければ分かりますが、「反キリスト」こそがサタニストであり悪魔崇拝者なのです。
キリスト教は「聖書」を信仰していません、「聖書」を利用して金儲けをしているだけです。

話が逸れましたね。
聖書における「復活」が起きる事の証明が実は「命日」という語源なのです。

聖書にこうあります。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことなく、死からいのちに移っているのです。

                     (ヨハネの福音書5章24節)

イエスは僕たちの「復活」について3つの事を仰っています。

  1. 永遠の命を持つ

  2. さばきに会わない

  3. 死から命へ

イエスが避けられた処刑を敢えて受け入れたのは、人々に永遠の命がある事を「証明」する為に処刑され「復活」する必要があったという事なんです。
今は聖書における「大患難時代」です。
大患難時代は終わりの時に訪れます。
当ブログ記事を読んでいただいている方は覚醒者の方が多いと思います。
「覚醒者」はキリスト者の方が多いと個人的には思っています。
聖書から推察するキリスト者の定義とは「利他の心」つまり「愛情深い方」だと思っています。
「隣人を愛することの大切さ」「争いを避ける」等、俗にいう「徳が高い」人は「キリスト者」だと思います。
聖書における「復活」しない人間は反キリストのサタニストであり、「ロンメル死」「ニュルンベルグ裁判で処刑される者」はイエスの「復活」の対象にはならず裁かれます。
つまり、この時期の軍事裁判の事まで聖書では書かれていたという事なのです。

死から永遠の命が与えられる日、それが「命日」なのです。
当ブログの過去記事でも精神性が高い人間がコロナ禍で周囲の未覚醒者の為に「復活を前提に亡くなる」事を敢えて選び生まれてきた魂なのではないかと書きましたけど、聖書を深く読んで自分の考察は間違っていなかったなと思いました。

やはり「キリスト」に近い精神性を持った魂を持った人は「復活」を前提にキリストの処刑と同じ役割で亡くなったんだと思われます。
祖母の葬儀で感じたのは僕を含めた残された人間の精神がいかにお粗末かという事でした。
今だけ、金だけ、自分だけというさもしい人間しかおらず、聖書に書かれたキリスト者は「祖母」だけだろうなと思っていました。
祖母の葬儀に参列した人間を見ながら、SNS上で噂されていた「生きている」という事が5次元世界に「選ばれた」という事ではないと確信を持ちました。


Qプランは「神の計画」だと言われています。
神がエンキかどうかは分かりませんが、シュメールの石碑等を読めば「創造主」という事は間違いなさそうです。
イエス・キリストの正体は「エンキ」がシェイプシフトした姿だと思われます。聖書はおそらく人生の指南書であり、聖書の教え通りに生きる事ができるか、知らなくてもキリストに近い精神性を持つ事ができるのかという5次元世界に行ける魂かどうか見定めるためのこれまでの26000年だったのではないかと思います。

どれだけ人の為に生きる事ができるか、争わない、愛情深い人間かどうか「復活」する価値があるかどうか選ばれていたのではないかと思います。

反キリスト者は物質主義者であり、拝金主義者です。
彼等の魂がどうなっているか、真実を知るものは限られています。
トランプ大統領はご存知だと思いますけどね。


驕らず、謙虚で、義理人情に厚く、利他の心を持った覚醒者の方々は、ここ数年間は辛い思いをされてきたと思います。
「ワクチンは生物兵器だから打つな」と家族や友人に言っても「キチガイ」「陰謀論者」と罵られ、避けられ、離婚された方も多いと聞きます。

それでも大切な人を助けたい、1人でも救いたい、気づいてほしいと行動し続けていた覚醒者の方に心から敬意を表します。
イエスの「復活」を目撃し、その「復活」は誰しも平等に訪れることを殉教も恐れずに世の人々の為に伝道していった12使徒と同じ「利他の心」を持った方々だと思います。

わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはそのひとたちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます

(ヨハネの福音書6章39節―40節)

「復活」は終わりの日に訪れます。
これは真実です。
その時に僕らの「終身刑」は終わりを迎えます。
「死」とはカバール、イルミナティ、ディープステート、そしてエンリルが僕らを支配しやすくする為の「概念」に過ぎなかったのです。
ここに気付けない、「復活」を信じる事ができない方は「覚醒」はしていないと思います。


まとめ

「命日」とは復活を前提とした言葉であり、永遠の命を与えられた日でもあります。
コロナ禍でロンメル死ではない亡くなり方をされた方々はキリストと同じ役割を受けて生を与えられた魂だと思います。
僕らより「高次元」なのは間違いないでしょう。

命日の語源にも「復活」が深く関係していると思い、やはり聖書を学んでよかったなと思っています。
以上、今回はここまでにします。
ありがとうございました!

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