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転職で感じた親子のバトン 昭和~令和へ

10月8日に無事58歳の誕生日を無事に迎える事が出来ました。ありがとうございます。10月は節目の月で19年前フィリピンに出発したのも10月でした。
英語もろくろく話せないうちに、まさか海外で暮らすなんて夢にも思ってなかったですし、フィリピンが気に入って永住権も取得して子育てもしていて、まさか日本へ帰国するとも思っていませんでした。
そんな予定外の人生をいつも歩んでいるなと思います。
今日はそんな昔を懐かしみながら、思いでを振り返ってみたいと思います。
#人はそれを行き当たりばったりと表現する

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15年勤めたケーキ屋を辞めると言う事

何度か書いてますが、スロースターターだった私は32歳の時に阪神大震災に被災してから考え方が変わってきて、50㎞、100㎞の2度のウルトラマラソンを完走して自信をつけて、38歳で15年半勤めた関西では比較的有名なケーキ屋さんを辞め、一人フィリピンへ移住しました

勿論望んで努力してつかみ取った海外での生活だったので、ケーキ屋を辞める事に後悔はありませんでしたが、躊躇はしました
だってボランティアも兼ねているので、月給はサラリーマン時代の5分の1になります。3食はついているもののお金を貯めるは難しかったですね。それにカオハガン島で働く事が、どう今後のキャリアアップとかに繋がるかも働く前には全く見当がつかなかったので、本当にギャンブルみたいな転職だとも言えました。

友人や後輩はちょっと夢がありそうな転職をお祝いしてくれて心が躍りましたが、親戚や両親に報告するのは心が重たかったです。というのも海外移住と言う大切な事ですが、雲を掴むような話だっただけにカオハガン島で働く手配を終わらせてから話しする「事後報告」だったからです。
働いていたケーキ屋さんは株式会社なので社会保険厚生年金も掛けていますし、給与+ボーナスと成果配分と言う業績で一定以上の利益が出たら、それを原資にして社員のボーナスとして配分する制度がありました。私が働いている時が一番売上が伸びている時期で、阪神大震災で会社も被害を受けましたが、翌年復興の兆しが見えたあたりで被災した多くの人が、お世話になった人へのお返しに地元のものを送ろう!と言う動きがあり、創業以来最大の利益を出して、成果配分で係長でしたが200万円を超えた金額が振り込まれました。翌年以降はさすがにこれほどの額面ではなかったものの、それでも実質年三回のボーナスは貰えていたので退職は大減収です。

意を決して父親に話をする日は落ち着きませんでした。色々と反対されそうな理由を想定して、一つ一つ反論を準備していたのですが、全てを話し終わった時の父は何も言わずポツリと

「お前がもう決めた事なら、何も言う事は出来ない」

と言ったのです。反対されても絶対行くつもりだったから、最悪親子断絶か?みたいな事も想像していたので、予想外の返答にこちらが戸惑いました。
翌日「お父さん昨日は一睡も出来なかったみたいよ」と母に言われ心が痛んだのですが、それ以降もフィリピン行きを反対はされなかったのです。

自分があの時の親の立場ならどうしたんだとうか?とずっと考えていました。一人息子にわざわざギャンブルみたいな人生を歩ますと考えたら、頭ごなしに止めろ!とは言わなくても、もう少し慎重に考えてみなさいとぐらい言わなかったのかな?と思いました。

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両親が歩いてきた道を考える

私の両親は共働きで芦屋の商店街にあるスーパーマーケットで精肉店を経営していました。父は中学を卒業後すぐに高松から一人神戸の精肉店で働きに出て、30歳手前で独立して私が5歳になった時に家族でお店のある芦屋市へ引っ越してきました。そして母と2人でお店を切り盛りするようになったのです。その時から私は鍵っ子と呼ばれる自宅で一人過ごす生活でしたが、家から歩いて5分ぐらいの職場によく遊びに行って、スーパーではパートさんに可愛がってもらいました。

両親は共働きの自営業と言う事で、365日毎日2人一緒に時間を過ごしています。なのに本当に仲が良くて私が物心ついてから今まで一度も母に手を挙げるどころか、喧嘩すら見た事がありません
いつも夕方まで一緒に仕事をしてから一緒に帰宅。お腹の空いた私の夕飯を2人で作り、終わったら2人で洗い物をします。洗濯も掃除も協力してやるので、父親の世代には珍しい全ての家事を2人で担うスタイルですね。スーパーは平日休みだったので、土日も僕は一人で過ごす時間が多かったのですが寂しいとは思わなかったです。
今考えてみると、両親と一緒にいる時間に沢山の愛情を貰っていて安心感があったからだと思います。

子宝と言う点では私が1か月以上の早産を何とか生き残った事、3人の妹を流産でこの世に生んであげられなかった事もあり、一人っ子にしてしまった申し訳なさもあったのか、言葉を荒げて怒られた思い出も少なく、今となっては優しい思い出ばかり思い出されます。

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子供に子供の人生を歩ます責任

フィリピン行きを決めた時だけでなく、特に父は私の行動にとやかく言う事が本当に少なかったです。

例えば、高校時代学校から歩いて3分の場所にある家を友人に禁止されている自転車通学の駐輪場として解放したら、毎日15人ぐらい止める様になりました。放課後は僕の家で全員毎日テレビを見たりインスタントラーメンをみんなで作り食べたりしてました。進学校でしたが、ちょっとやんちゃだけど優しい友達ばかりだったので、家の中は毎日お祭り騒ぎでした。でもご近所にはそんなに迷惑をかけてなかったからだと思います。母は文句も言わず毎日来る友人の為に、ラーメンを6袋ぐらい買い続けてくれました。

私は両親特に父に、凄く影響を受けていると思います。私は今2人の思春期の子育てをしながら、父が私に教えてくれた事をどう子供たちに繋いでいくかを考えてます

父はいつも私の気持ちを尊重してくれました。親なら自分の意見を強く押し付ける事も出来たのにそれをしない事が多かったと思います。自分が親になった今、この難しさを感じます。
でも私が嬉しかったのは、父は「子供は家族の宝物。でもいつか手放す借物」として扱ってくれた事でした。だから何も言わず手放してくれたと思っています。

弱音を余り言わない父は、背中で教えるを心がけていたのかもしれないし、だからこそ私に考える力がついてきたのかもしれないです。

最近「発信する事」に凄く関心があって、言葉の大切さや重さを感じる事が多々あります。でも気持ちが伴わない事を伝えるのを「誤魔化し」と言い、気持ちを伝えるのは言葉だけでは足りなく、態度や行動を合わせないと信頼されないと思います。
それは自分の夢を語る時、そして実現させる為に一番のキーポイントになると思いました。
年々小さくなって益々穏やかになる父と母に感謝をし、貰ったバトンをしっかり渡す準備をしたいと思います。


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