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自#125|勢津子おばさんの青春物語~その18~(自由note)

 勢津子さんと錫村青年は、東大の伊藤先生、和光堂の小山先生に指導されて、ビタミンB2ビタミンC、アミノエチルスルフォン酸(タウリン)というアミノ酸などを使って、疲労防止食の添加物を拵えます。次は動物実験を施さなければいけません。小山先生にアドバイスされて、ネズミを泳がせて、その時間を計ることにしました。

 ドラム缶に20度のお湯を入れて、100~120グラムのオスのラット(白ネズミ)を泳がせます。ネズミは喜々として泳ぎ、少しも疲れた様子を見せません。その内、ラットの毛に水泡が一面について、浮力ができ、何時間でも浮くことができるようになりました。そこで、しっぽに鉛のオモリをつけて、泳がせることにしました。5グラム、10グラム、15グラムと、いろいろなオモリをつけて、やっと三分以内に、ダウン(おぼれる)するようになりました。オモリも、おぼれかかるネズミをすくい上げるタモ網も特注です。ネズミは、東大前にある椎橋動物商で、80グラムの重さのオスの血統正しいものばかりを、一回に40匹ほど購入します。ラットは、一匹、1円20銭。メスには性周期があって、実験成績にブレが生じるので、オス限定です。元気なネズミは、動き回りますが、それをきちんと手でつかまえて、ピクリン酸で黄色の目印をつけます。慣れない内は、かみつかれたり、逃げられたり、強くつかんだために死んでしまったりと、苦労します。素手でネズミをつかむことができなければ、何ひとつすることができません。とにかく、うまくネズミをつかまえて、適当な重さの鉛の玉をしっぽにぶら下げ、決められた温度のお湯で、三分前後泳がせ、ストップウォッチを片手に、溺死寸前を見はからって、すくい上げます。これをタオルにとって、体をよくふいて休養させ、スポイドで薬を飲ませます。一時間休んだら、また泳がせます。
 ネズミは、まっ白でふわふわ。赤い目が、とても可愛くて、よく人になつくそうです。頭や背中、胸などに黄色の印をつけています。飼料も水もすべて計って、記録します。休日はありません。体重が180グラムを超えると、この実験には適さなくなるので、椎橋に電話をして、80グラムのネズミを持って来てもらいます。育ち過ぎたネズミは、二匹を腹の側部でつないで、別の実験に使います。ネズミをエーテルで眠らせて、血管をつないで、二匹を一体にします。
 疲労防止食は、各種のビタミンやアミノ酸、糖類など、様々な条件下で、単独にあるいは、二つか三つ複合させて与え、ネズミを泳がせて、遊泳時間や体重を計るのを試した結果、ビタミンB2とビタミンCを多量に与えると、効果があることが実証できました。またアミノエチルスルフォン酸(タウリン)は、ビタミンBとCの複合よりも、大きな効果があることが、検証できました。タウリンは、現在、疲労回復以外に、神経系や循環器系に作用し、血圧調整作用、肝機能障害を改善する作用、内分泌機能調節とか抗ストレス作用、細菌感染防御、解毒作用、などに効果があると言われています。
 タウリンは、胆汁の中に多く含まれ、人の尿中にも排泄されています。自分自身の尿を飲む(あまり知られてない)健康法がありますが、これは、尿中のタウリンを摂取することによって、健康維持を図ろうとするものです。
 勢津子さんたちの実験は、順調に進み、それなりの成果も出たんですが、戦争の末期で、製品化はもう不可能でした。
 勢津子さんは、糧秣廠で研究に従事している時、ドイツ語の文献を、地道に読んでいます。丸善の営業マンが、毎日、午後2時にやって来たそうです。海賊版の洋書は、一冊30円~50円くらい。月給と同じくらいの高価な値段です。が、飛行機や戦車などと較べたら本などは実に安い買い物です。本は、注文すれば、いくらでも買えたようです。
 戦争のために、学校では充分な教育は、受けられなかったんですが、糧秣廠では、物資にも、指導者にも、仲間にも恵まれて、大学で言えば、50単位以上の勉強ができて、自分の人生の中で、もっとも充実し、自分らしく生きていたと、勢津子さんは、糧秣廠時代を回顧しています。
 終戦前の2ヶ月は、カミュの「ペスト」に出て来るアルジェリアのオランと云う港町の雰囲気に似ていたと、勢津子さんは書いています。
「いつもの活気がすべて消え、人々は別離や恐怖と云う共通の感情を持ちながら、自分の力では、どうにもならないむなしさ、運命的なものに対して日夜、生命の危険にさらされながら、なすこともなく、静かに流れる日々」と、そんな風な戦争末期の心象風景だったようです。
 昭和20年8月13日、北里大の研究室に寝泊まりしていた父親が、勢津子さんに会いに来て「日本は降伏することになった。戦争はまもなく終わる。政府は、このことを主要各官庁の責任のある立場に人に伝えた。自分は、親しくしている東大教授の後藤さんから聞いた」と伝え、すぐに帰って行ったそうです。
「日本が負ける。そんなことがあってはならない。負けるのなら、最後まで本土決戦でなくては、戦場に露と消えた兵隊さんに申し訳ない。日清、日露戦争以来のあの台湾も、朝鮮も満州も、なくしてしまうなんて、明治天皇さまに申し訳ない。どうしよう、どうしよう、まさか、まさか」と云う気持ちだったと、勢津子さんは書いています。第四高女で、「精進の人、神の兵」と云う考え方を、徹底的に刷り込まれ、糧秣廠で、ネズミのしっぽにオモリをぶら下げ、「私にできる戦争への協力はこれしかない。天皇陛下のおんために尽くす手立てはこれしかない」とひたすら思い続けて、勢津子さんは、精進していたんです。勢津子さんだけでなく、これが、多くの国民の率直な気持ちだったんだろうと、想像できます。
 今日は、8月14日。ポツダム宣言を受諾した日です。過去の戦争を、なかったことにはできません。過去をなかったことに、決してしないのが、歴史です。私は、歴史の教師ですから、そこはしっかりと弁えているつもりです。

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