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教#013|数学を捨てたことは、やっぱり失敗だった~「漫画:二月の勝者」を読んで⑧~(たかやんnote)

 私は小学校は3つ、中学校、高校、大学、職業は、2つずつ経験しました。強引に自分の主観で、学力などと絡めて、思い出してみます。

 小学校は最初に通った潮江小学校と、次の潮江東小学校の学力は、割合、高かったのかも知れませんが、どちらも私には合ってない小学校でした。3つ目は、母の郷里にある、海の傍の分校のような、小さな小学校でした。最初に通った小学校は、全校生徒は2千人くらい。次の学校は、半分の千人。最後に通ったみませ小学校は、全校生徒、100人ちょっとの(当時としては)小規模校でした。学力的には、めちゃ低かったのかもしれませんが、楽しかったです。その前に通っていた2つの小学校には、勉強のできる生徒が、男女ともにいましたが、みませ小学校には、そもそも、勉強ができる、できないと云った風な概念すらなかったと思います。学力はなくても、野性と自然があふれていました。

 中学校は、中2の1学期まで、N中学校に通いました。N中学校は、当時、市内で一番、荒れていた中学校です。中2の2学期から通ったJ中学校は、市内で、一番、優秀な中学校でした。面白さの種類が違うので、そこは比較できませんが、学力的に優秀な中学校の方が、個性的な生徒が多くいました。N中学校にも、モンキーズやビートルズを、聞いている生徒はいましたが、クリームやキンクスは、私が知る限り、誰も聞いてませんでした。J中学校に転向すると、私以上に、UKロックに精通している音楽好きがいました。学力の高さと、興味関心の幅広さ、深さは、ある程度、連動していると思います。

 私は、中1の最初から、中3の1学期まで、ほとんどノー勉に近い状態でした。で、中3の夏休みに、毎日、市民図書館に通って、勉強しました。AM9:00に開館から、閉館までずっといましたから、毎日、10時間や、そこらは勉強していた筈です。中3の1学期まで、ヤンキーだったboyが、毎日、自主的に勉強するようになったわけです。それは、やはり、周囲に優秀な生徒がいたからです。私のクラスに、3人、勉強のできる優秀な生徒がいました。勉強ができるって、つまりこういうことかと、私なりに理解しました。解らないことを聞けば、丁寧に教えてくれました。勉強のできない生徒より、できる生徒の方が、親切で優しく、人間力もあると云う印象を受けました。高校に進学すると云う明確な目的意識は、持ってなかったんですが、勉強のできる三人に負けたくないと思って、夏休みの40日間、図書館で、グリップ、アタックのような参考書を使って、自学自習しました。夏休みの40日間で、勉強ができる3人に、ほぼ近づきました。当時、中学校のカリキュラム自体、そう濃い(厚い?)ものではなかったと思います。

 高校に進学するつもりはなかったんですが、最初に通っていたN中の先輩に、工業高校の定時制に来ないかと誘われました。気の利いた、使い勝手のいい舎弟を、先輩は求めていたんだと思います。私は、中3の5月にヤンキーを卒業していました。
「もう喧嘩はせんし、先輩の役には、立てんですよ」と、言い訳しましたが
「嫌やったら、やめりゃええけん。まあ、来いや」と、再度、pushされました。
 担任に工業の夜間を受けると言うと、すぐさま
「ほな、高専も受けや」と、勧められました。まだ、若くて、やる気のある熱い担任でした。担任は、私が、scienceの世界で、青春の情熱を燃やしたいんだろうと、勝手に勘違いしてくれたんです。で、国立高専を受けて合格し、成り行きで進学しました。

 高専は全寮制で、それはそれなりに楽しかったと言えます。中2、3の頃、少年院に行った友達や、刑務所に入った先輩に、手紙を書いていました。高専の寮に入ってからは、もっと幅広く、中学のクラスの友達や、お世話になった先生、大阪に転向して行ったK子ちゃんなど、いろんな人に手紙を書くようになりました。毎日、1通ずつ書いていました。大学ノートの見開き2ページに下書きをして、パイロットの万年筆で清書をします。下書きが1時間、清書が1時間。私の文章を書くスタイルは、半世紀前の15歳の頃とまったく同じです。大学ノートの2ページが原稿用紙になり、パイロットの万年筆の清書が、ワープロになっただけです。

 高専の先生のレベルは、中学校や普通高校よりも高かったと思います。授業を通して、数学と云うのは、記号や数字を使って、抽象的な概念を突き詰めて行く学問だと、私なりに理解しました。高専在学中(と云っても半年しか在籍しなかったんですが)に、自分は抽象的な概念を、数字や記号ではなく、言葉で追求して行くのが好きなタイプだと、自己分析しました。数字や記号より、言葉の方が、自分の性分には合っていると判断したわけです。これが、高専を退学した理由です。その後、高校に進学すると云うことは、退学した時は、考えてませんでした。学校に行かなくても、自分で本を読んで、言葉の世界を究めて行けばいいと、simpleに考えていました。

 高校を中退して、喫茶店でバーテン見習いを始めました。私が働いのは、現代企業社の「現代」と云う三階まである喫茶店です。現代企業社の他の店は、第三とか、第五、皇帝と云ったベートーベンの曲名を店名に使っているのに、会社名のまんまの「現代」が店名でした。ですが、BGMで流していたのは、バッハ、ヘンデル、ヴィバルディと云ったバロック音楽です。朝7時から、夜7時まで、毎日、12時間、バロックを聞きました。今でも、バロックを聞くと、16歳のバーテン見習いだった頃のことを、即座に思い出します。

 翌年、県立追手前高校に、入り直しました。高校を卒業するのは、通過儀礼だと悟ったと云うこともありますが、高専を一緒に退学した、親友のHと、もう一度、高校時代をやり直してみたいと云う気持ちもありました。学力的には、高専の方が上で、日ごろの課題、勉強もハードでした。私の郷里は、私立高校の方が、学力が高く、進学実績も上で、県立高校は、おおむね、牧歌的でのんびりしていました。高専は、楽しかったんですが、結局は、数学を忌避して逃げ出して来たわけです。数学をきっちり学びながら、同時に言葉の世界をゆたかにして行く方向性もあった筈ですが、まあ、短絡的に数学を捨ててしまったと言えます。過去の人生において、後悔をしていることは、ほとんどないんですが、数学を捨てたことは、やっぱり失敗だったなと、冷静に判断しています。

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