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自#116|勢津子おばさんの青春物語~その9~(自由note)

 5年生になると、修学旅行で関西に行きます。8泊9日です。8泊9日の旅行に行くことは、戦前の普通の女性には、まずあり得ないことなので、最初で最後の長期の旅行です。女学校の生徒たちにとっては、おそらく一番楽しいイベントだった筈です。

 現在の関西方面への修学旅行と違って、伊勢神宮の参拝や、吉野での南朝の歴史探訪、伏見桃山御陵での明治天皇のお墓参りなどが、組み込まれています。天皇家の歴史を学び、関連の神社に参拝することが、修学旅行の大きな目的だった訳です。石坂洋次郎の「若い人」も、最後の方に、関西修学旅行の記述があります。石坂洋次郎が勤めていたのは、青森県横手の高等女学校です。本州の最北端の地域の女学校であっても、修学旅行は、関西方面だったわけです。「近畿関西修学旅行の栞」(三省堂旅行案内所編)を、出発する前に、暗記するほど読んで、必要かつ充分な知識を得て、修学旅行に出発した様子です。

 関西までの往路は船旅です。昭和14年5月14日に、横浜から南米のサントスに向けて出港する大阪商船ラプラタ丸に乗って、神戸に向かいます。出発の日の天候は雨で、富士山を見ることは、できなかったようです。船酔いで吐いてしまう同級生が、沢山います。勢津子さんは、元気だったので、同級生が新聞紙の上に吐いたものを甲板に持って行って海に投げ捨てたりして、船酔いをした友人のケアで、なかなか忙しい船旅だった様子です。

 船室は三等の蚕棚と云うベッド。四段式くらいになっているベッドだと想像できます。食事は、不味かったんですが、生まれて初めての洋風の食事で、感激したそうです。朝起きると快晴。海上から見た朝の紀伊半島は、素晴らしい光景だったと、お書きになっています。間もなく、左手に四国が見え、淡路島の傍を通って、神戸港に到着します。

 まず別格官幣社の湊川神社に参拝します。湊川の戦いで、足利尊氏に敗れて、楠木正成は一族とともに自害しますが、その忠臣、楠木正成を祀ってあります。神戸の元町の通りが、東京の銀座よりあか抜けていたのが、印象的だったそうです。神戸から電車で大阪に移動します。泊まったのは、大阪市内の大日館と云う旅館。道頓堀のにぎやかさも、ぼんやり記憶にありますと、勢津子さんは述懐されているので、大日館は、ミナミにあったんだろうと推定できます。

 翌朝は、天満橋から電車に乗って、宇治に向かっています。天満橋は、堂島川の傍でキタにありますが、耐久遠足で、足腰を鍛えている女学生たちは、重たい荷物を持って、何ごともなく、ミナミからキタまで歩いたんだろうと想像できます(せいぜい4キロくらいの距離ですから)。

 宇治で、藤原頼道が創建した平等院鳳凰堂に参拝します。鳳凰堂は、平安時代阿弥陀堂の代表的な遺構。常朝作の阿弥陀如来座像を拝むのが、今も昔も、修学旅行の(いや宇治観光の)お約束です。その後、伏見の桃山御陵を参拝します。

 私の親友のHが、龍谷大学に通っていた時、桃山御陵の最寄り駅のたんばばしに下宿していました。Hの下宿先で、長期休暇の折など、所在なく過ごしている時に、しょっちゅう桃山御陵に出かけていました。伏見桃山城址もありましたが、当時のアンノン族は、伏見桃山までは、押し寄せて来てなくて、牧歌的なただっ広い緑の丘陵でした。戦前でしたら、明治天皇や桓武天皇のお墓参りに、修学旅行生がやって来ていた筈ですが、私が学生時代に、京都で漫遊していた頃は、伏見桃山は、ひなびた静かな田舎町でした。

 伏見桃山御陵から、京阪で移動して、三条へ。三条の松家と云う旅館に宿泊します。松家は、第四高女の常宿で、松家の二階で、三泊したそうです。京都は、バスで回った様子です。勢津子さんは、修学旅行の会計報告書を掲載してくれています。それを見ると、金閣寺(焼ける前ですから足利義満が創建した本物です)、銀閣寺、知恩院、西本願寺、京都博物館、石山寺、三井寺などを訪れています。

 京都で三泊して、奈良に移動します。奈良の大文字屋も第四高女の常宿。奈良は、大文字屋のマスターが、第四高女の修学旅行に付き添って、案内してくれたようです。修学旅行は、ラプラタ号の船中泊も含めて、5泊もしています。引率の先生も、もうかなりお疲れになっている筈です。引率をされるのは学級担任(学年の先生)ですが、この年は、学校長も同行していたようです。「学校長が御一緒で、担任の先生方のお疲れも、ひとしおだったように身受けられました」と、勢津子さんは、率直にお書きになっています。奈良は、興福寺、東大寺、法隆寺、薬師寺、唐招提寺と、定番のコースを廻っています。

 大文字屋の大広間の夕食の時、唐招提寺でリーダーのチャーコがもらって来たウチワを使って、みんなで、結婚披露宴をしようと云うことに、急遽(きゅうきょ)、話がまとまったそうです。自分の姉や、親類の結婚式に出席したことは、多分、高女の5年生の生徒でしたら、ほぼみんな経験があって、結婚式がどういうものであるのかの共通認識は、できていたんだろうと推測できます。新郎はOさん、新婦はYさん。チャーコと、勢津子さんが仲人夫妻。全員のお膳が配られた時点で、開宴。汁のお椀の蓋を三つ重ねて、三三九度の杯をあげ、勢津子さんが高砂を謡い、チャーコは、牧師役。つまり和洋折衷の結婚式です。あちこちで、テーブルスピーチが、勝手に始まって、大文字屋の大広間は、大騒ぎ。とうとう、先生が、階下からご出馬されて「あんまり、みんなを笑わせないように」と、ご注意なさったそうです。つまり、先生方は、おそらく別室で、飲んでいたんです。夜の宿で、多少は飲んでないと、8泊9日の修学旅行の引率は、ストレスが溜まって、とてもやってられないだろうと想像できます。

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