四角いマットの人食い狼(7)
──同時刻、神プロ応接室にて。
「俺は結構だがねェ」
古川は思わずその言葉に──他ならぬ自らのボス、神野の──耳を疑った。
「ローン・ウルフは、いいレスラーだ。やりてェかやりたくねェかでいやあ、やりてェ。ハラダも世話ンなってんだから、そちらさんにも華を持たせてえしな」
小林は胸をなでおろしたように見えた。──一方の古川の心中は穏やかではない。神野は負けない。強すぎるのだ。ローン・ウルフなど、赤子をひねるようなものだろう。
それは、わざわざリブレに移籍させたハラダの価値がゼロになることを示している。不敗である未知の強豪、ローン・ウルフの王座をハラダが奪ってこそ、彼が神野の前に立つ説得力が産まれるのだ。
神野はいつか引退するだろう。プロレス界の伝説になる男だ。それはいい。しかしその伝説を継ぐ者であるハラダが潰されたらどうなる?
日本のプロレス界は終わりだ。彼は都落ちした単なる一レスラーに成り下がる。
「小林社長。ではハラダとローン・ウルフのマッチを速やかに組んでいただきたい」
古川は切りつけるようにそう言い切った。とにかく、ローン・ウルフの価値がなくなる前に、ハラダを戦わせなければならない。
「ハラダは彼と戦うために移籍したんです。言いたくはないが、こちらに復帰させるためのシナリオもできてる。順番は守っていただきたい」
「ハラダはこちらの選手でしょう」
小林はつっかえそうになりながら言った。それは、会社を守るためにだけ見せた彼の勇気だった。頭の中でゴングがなったような気がした。
「ウチの選手がいつローン・ウルフと戦うかは興行スケジュールとの相談ですからね。それより、神野さんの胸を借りられるなんて、こんな光栄なことはないですよ。ウルフも願ったり叶ったりでしょう」
小林はスマホ──小田島の言葉を握りしめていた。神プロ側との会談直前に入ってきたメッセージは、小林にとってまさに青天の霹靂であった。
神野とウルフを先に戦わせる。確かに、言うことを聞くかどうかもわからないハラダとタッグを組ませるくらいなら、いっそウルフと戦う気を無くさせればいい。
神野がここまで乗り気だとは思わなかったが…
「とにかくだ。ウルフがやるってんならよォ、俺はやるぜ。ウルフにもそう伝えてくれ」
神野はピシャリとそう言い切った。古川はまだ何か言いたそうだったが、手も足も出ないといったふうであった。
まさしく神の一声というわけだ。小林はどこか安堵の表情を見せつつ、胸をなでおろした。
「しかしだ、小林さん。……俺ァ実を言うと、ウルフをかなり買ってるんだ」
「それは光栄ですね」
「違う。そういう意味じゃない。欲しいんだ、ウチに」
神野は攻撃的な笑顔を作り──口端から覗く犬歯が鋭く見えたのは気のせいではないはずだ──そう言った。
「……ウルフは、ウチの看板ですよ」
「看板だから欲しいんだ。ウルフみたいなミステリアスな実力者が神プロには必要だ。ハラダがあんたんとこに行ったみたいに、ウチに一時でも移籍して貰えりゃいいんだがなァ」
凄まじい重圧である。小林は思わずたじろいでしまいそうになる。現役時代でもこんな恐ろしいレスラーとは対峙しなかった!
「社長。その前にハラダの件を検討しなおしましょう」
古川の声と同時に、炎が迫ってくるような神野の視線は止んだ。
「ハラダをあのままにするのは損失ですし、ウルフを移籍させてそれが取り戻せるかどうか分かりませんからね。……小林さん、今日はこれでお引き取りを。この埋め合わせは必ず」
続く