ライク・ア・ヘル・エッジ・ロード(7)
ボクサーに銃口を向けたのは初めてだった。ヘビー級を遥かに超えた体格だろうが──それより厄介なのはブラスナックルとブレーサーだ。
顔や体に当てようとするのは得策ではない。アドはすぐにそう判断し、足元を狙ってとにかくトリガーを引く。BLAM!
少年の手を引っ張り、トリガーを絞り続ける。BLAM! BLAM!
しかし、シスターは意に介していない。ここは車両の最前列。いくら撃たれようと逃げ場は無いのを、理解しているのだ。甲高い金属音と、吹き抜ける風がうっとおしかった。
いつまでも避けられるはずがなかった。シスターのアッパーを捉えたのは、すでに打たれた後だった。
腹に拳が入ったのは久しぶりだった。空気が、胃液が、血混じりのどろどろした何かになってせり上がってきて、その場にぶちまけられた。ブローニングも一緒に、反吐の中をずるずる転がった。
シスターは容赦なく、アドの首を掴むと、ネックハンギングに持っていった。
ああ、くそ。ジ・エンドだ。アドの思考が、不思議なくらい冷静に──そして諦めたようにゆっくりとそう言った。
「データはいい。ガキが手に入るなら、それはそれで好都合だ」
「滅しますか」
「Amen」
神父は残念そうに胸元で十字を切った。シスターの指の圧力が一気に強まり、視界がモザイクみたいに白黒し始めた。
死だ。
怖かった。何もかも漏らしてしまいそうだ。泣き叫びたかったが、それすらも許されなかった。
最後に耳に飛び込んできたのは──神父の怒声だった。
「やめろ、アリエッタ! 見るな!」
直後、首にかかっていた手が離れ、自分の体が地面に再び降り立った──落ちたというほうが正確だが──。
シスターは、ショップのマネキンみたいに動きを止めていた。神父がカソックコートの裏に釣っていたのだろう、S&Wの黒いリボルバーを抜いているのが見えたので、アドは愛銃をなんとか拾い上げて、めちゃくちゃに撃った。
当たらない。だが今はそれでいい。神父はビビって、となりの車両へ移った。
直後、地下鉄は停車した。アナウンスされた駅名はサウスパーク。オールドハイト市の南区まで来たのだ。
なぜか専門書を出している少年の襟をひっつかむと、転がるようにして車両の外へ出た。
扉が閉まる。ここまで三十秒。マネキンがぎこちなく動き出したが、そのときにはすでに地下鉄はホームから滑り出し、次の駅へと向かい始めていた。
骨が無事だったのだけが、唯一の幸運だったと言えた。しばらく血反吐が混じったが、凹んでいられない。トイレットペーパーで無理やり血や反吐を拭って、アドはトイレの外へと出た。
グラフィティが目立つホーム。古新聞を抱えて寝転がるホームレスからみても、北区と比べると治安は悪いようだった。
『大丈夫?』
少年は待っている間、ナップサックを開けていた。中には好きなぬいぐるみや漫画、分厚い専門書の他に、ペンが入っていたようだった。
精神分析論、などと書かれたその本のページの端に、拙い字で少年はアドを心配するような言葉を書いたのだ。
「お前──」
『ぼく、しゃべるの下手。字は書ける。絵はもっとじょうず』
「……なるほど。この絵で上手だっての? わたしのほうがもっとうまくかけると思うけどね……」
アドはページの端に描かれた犬のようなものを指さして笑った。
『ぼくの絵、みるといろんなことが起こる。さっきのシスターも見た』
「何にも起こんないけど」
『これは練習のらくがき。見てて』
少年はページをめくった。そこには、余白どころか見開きページ全体を使った四本足の生き物が、寝そべって舌を出している絵が描かれている。
妙な気分だった。
少年を引っぱたいて先を急ぐこともできた。しかし、まるでその場に縫い付けられたように動けなくなったのだ。
正確にいえば、その気が無くなった。ほんの十秒か二十秒程度だったが、少年のことを信じるのには十分な時間だった。
「う?」
どうだった?と聞かれたような気がしていた。
「どうなってんの……?」
少年はニコニコとこちらを見上げていた。とにかく、足止めをしてくれたのは彼なのだろう。それは理解できた。そして──彼が狙われる意味も段々見えてきた。
しかしわたしはシャーロック・ホームズじゃない。ここで謎解きをしてるヒマも無い。わたしはストライカーで、今は運び屋だ。
「あんたが凄いのは分かった。……引き渡した先でいくらでも可愛がってもらったら?」
アドは少し落胆した彼の手を引いて、駅の外へと出た。閑散としたスラム街というのが、彼女の第一印象だった。
銀色の古ぼけたセダンがビルとビルの間に止まっている。人通りも少ない。ラッキーだった。
アドは迷わずブローニングのバレルを持って、サイドのガラスを叩き割った。
そのまま売るなら完全にNGだが、乗り捨てるだけならこれで十分すぎる。
ベルトのバックルに仕込んだナイフを抜くと、カギの差し込み口に突っ込んで破壊し、配線を繋ぎ直して、セルモーターを器用にスタートさせた。
頼りないエンジン音だが、今はとにかく動けば良かった。ガソリンは半分以上入っている。少なくとも途中で乗り捨てるハメにはならないだろう。
「さっきの絵だけど」
「う?」
アドはかなり言い淀んだが、結局意を決して言った。
「……ありがと。助かった」
少年の表情が明るくなり、なんどか嬉しそうに頷いたのを見てから──アドは今日何度目かの車を発進させた。
続く