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四角いマットの人食い狼(6)

 ──三十分後。
 リブレ事務所前の喫茶店『スターロード』にて。

「俺は嫌だね」
 阿久津はそう言い切った。コーヒーの湯気が虚しく漂う。
 小田島は口内にコーヒーではない苦味が広がるのを感じていた。
 阿久津ことローン・ウルフは──今はオフ用の簡易マスクを被っている──ハラダと戦いたいと言い切った。

「君はハラダと戦って勝ちたいのか」

 我ながら間抜けな質問だ、と小田島は思った。当たり前だ。レスラーなのだから、誰だってマットの上に立ちたいに決まっている。

「ああ。勝ちたいね。……負けると思ってやるバカはいないしな」

「君ならわからないこともないだろ」

 小田島は思わず身を乗り出す。

「ハラダは一流のレスラーで──その目的は見え透いてる。君はローン・ウルフとしてリブレの灯火を消さないことが任務だ。君がハラダにぶつかったら、ひとたまりもないんじゃないのか」

「ローン・ウルフの真似をすれば、そりゃそうなるさ。だが阿久津としてなら──はっきり言って勝てる」

「それに小田島さん。俺は確かにローン・ウルフになるとは言ったが、リブレを持たせるために言うことを聞くとは言ってねえ。俺はリブレのチャンピオンだ。だからハラダの挑戦も受ける」

 阿久津はそう言い切り、タバコに火を点けた。阿久津としてなら勝てる。それはあまりにもハラダを軽視しすぎている。

 元々、ローン・ウルフに対抗心があった阿久津には、潜在的にウルフに対する忌諱感があったのだろう。いまやウルフは彼なのだ。それまでローン・ウルフと反目することで半ば干されていた彼が、ウルフとなってチャンスが訪れたことに、些か嫌悪を覚えるのも無理からぬことだ。それが原動力になっているのはいい。しかし、今はそれがただただ邪魔だ。
 小田島はどうしたものか、と考えあぐねた。阿久津のタバコの灰が、灰皿に落ちた。考えがまとまらない。

「勝てたらどうするんだい?」

「ハラダにか?」

「それ以外に誰がいる。確かに君は無敵のチャンピオンになるだろう」

 まるで血液が逆流するようだった。わかってもらわねばならない。ハラダと同じマットの上に立つこと自体、リブレにとって致命的であるということを。

「だがそれはローン・ウルフとしてだ。阿久津くん、君としてじゃない。そんなことで君は満足できるのか?」

「あのな、小田島さん。俺は一度は干されたレスラーだ。……いや、今もそうだ。観客は俺じゃなくてローン・ウルフを見に来てるからな。そんな中でもだ。最強の一角張ってるハラダと戦えるかもしれない。満足かだって? 大満足だよ。レスラーはやった後のことなんか考えねえ。違うか?」

 阿久津は納得しなかった。するつもりがなかった。思えば当たり前なのかもしれなかった。彼はレスラーとしての大成を望み、その一歩となるだろうとしてローン・ウルフとなった。
 そこにリブレという団体の維持は目的に含まれていない。彼はたとえ差が歴然という男との対戦であってもやるつもりだ。

 痛いほどわかる。

 阿久津はリブレの初期を知らない人間だが、その本質は自分たちと同じだ。スポットライトを浴びることができなくても、プロレスをやりたかった人間──それでいて彼は、レスラーとしての野心を隠そうとしない、隠せない人間なのだ。
 やれるのならば、やりたいに決まっている。

「君が負ければ、リブレは終わりなんだ。それに君も終わる」

 小田島は自分に言い聞かせるようにそう言った。

「負けねえつもりだよ、小田島さん。だから、最高の舞台を用意してくれ。損はさせねえ」

 ギラギラとした瞳が、マスクの下から覗いている。小田島は、ゆっくりと首を縦に振った。そうさせるだけの眼力であった。

「分かった。この件については社長とも相談させてほしい」

「アンタの一存じゃ無理なのか、小田島さん」

「難しいな」

 小田島は懐からタバコを取り出すと、咥えて火を点けた。

「社長としてもハラダを君とぶつけるのは危険だと思っているからね」

「なら、勝てる保証がほしいってことか?」

 プロレスとはルールのあるケンカだ。確かに勝てる保証があれば良いが、それ以上に四角いマットの上では何が起こるかわからない。保証が保証として機能するかどうかもわからないのだ。

「あるならね」

「じゃ、教える。……チャンピオンにとって勝ちってのはどういうことだと思う?」

「勝ち?」

「そうさ」

 阿久津は笑みを見せ、手元の灰皿に灰を落とした。

「KOされればもちろん負ける。こっちが相手をKOさせれば勝つ。──だがチャンピオンは防衛が目的だ。相手を倒すまでいかなくてもいい。引き分けにもっていけば俺の勝ちだ」

「そんなことはわかってる。問題は、ハラダが──」

「納得しねえだろうな。だから、ここからがキモなんだ」

「キモ?」

「ハラダが俺を倒したいのは、神野と戦えるからだ。やつがそうさせるのは、俺が少なくともハラダと同格だと思われてるからだ。……じゃあその前に、俺が神野と戦って──負けたらどうなる?」

「神野と? そんなことしたら──」

「そう、格付けが済んじまうよな? 神野はプロレス界の頂点だ。負けたって大したことはねえ。『負けて当然』なんだからな。……少なくとも、神野と善戦できる実力をもった人間でなきゃ、ハラダは俺を倒す意味がなくなる。……まともにぶつかる意味をなくす。やる気のねえレスラーなら、倒せる」

「社長とは、君をハラダとタッグパートナーにするアングルを組むつもりだったんだ」

「悪くねえと思うが、それじゃ一歩足りねえ。ハラダは俺を倒せればいいんだ。……手段選ぶと思うか? それこそ試合の中で──最高のタイミングで裏切ってくるぜ。その実、神野なら間違いはねえ」

 ハラダの移籍話と同時に、夏に行われる帝京ドーム大会──通称8.8に、ローン・ウルフを参戦させないか、と言う話が先方からあったのは事実だ。しかしそれを阿久津は知らないはずだ。なぜ、そこまで先が読めるのか。わからない。

「不思議そうな顔だな」

「それはそうだろう。君は冴えすぎてる」

「……ローン・ウルフは俺じゃねえが、今は俺がウルフなんだ。俺だって長く戦ってたい気持ちも持ってる。……それに、レスラーは場外戦(ラフ・ファイト)に強くないと意味ねえ」

 阿久津は言い聞かせるように言った。

「ハラダには勝てる。勝ち筋も見えてる。だから、戦わせてくれ」

 手段を選ばなかったのだろう。小田島はそんな風に考えた。ローン・ウルフとして、一人のレスラーとして──やれることをすべてやり、勝ち筋を──もっとも邪道に過ぎるが──見つけた。

「わかった。……こうなったら、社長に連絡しなくては」

「小林さんはどこに?」

「神プロに向かってるはずだ」


続く