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鎌倉以上、江ノ島未満

 女っけがまるでなかった無彩色かつ鬱々たる大学生活において、知り合いと呼べる異性はキャンパス内に三人いた。

 一人目はエーコ。彼女は、僕がよくつるんでいたバスケサークル副部長の五番目の女であり、同期であり、また同郷出身者であった。自称・綾瀬はるか似のトランジスターグラマーは、しかしどちらかと言えば元プロ野球選手の門倉健似で、その辛辣極まりない事実をありていに指摘しようものならば銃刀法違反の鋭利な顎をこれでもかと誇示し「エンタの神様」時代のカンニング竹山ばりのアナーキーさでもって怒髪天を衝いた。

 もっとも、誰がなんと言おうとも非は全面的にこちらにあり、今となっては彼女に対する無礼の数々を心底から猛省している。エーコ、すまなかった。

 二人目はエミ。ササキエミ。若者を中心に絶大な人気を誇っていた実力派ロックバンド・シャカラビッツのヴォーカル、UKIを意識したかのような、いわゆる青文字系ファッションに身を包んだ彼女は、お国訛りの抜けない、ツートンカラーのオン眉バングが印象的な童顔女だった。

 エミには少々、いやだいぶエキセントリックなところがあって、ここに書き記すことすら「うーむ」とためらってしまうような逸話が煩悩の数ほど存在する。

 たとえば、たとえばだ。あれは確か大学二年の梅雨時期だったろうか。キャンパス内の喫煙スペースにて突然「エミ、カリスマ女優になるっちゃ!」と同期らに宣言し、翌日からぱたりとキャンパスに顔を出さなくなったエミは、ほどなく聞いたこともないような弱小芸能プロダクションと契約。からの、高額なレッスン料を支払いきれず、人知れず蒸発したというエッヂの効いた過去を持つ。事実は小説よりも奇なり、とは言ったものである。

 ちなみに在学中、同期づてに一度だけ彼女の噂を聞いたことがある。下赤塚の安アパートにて、そいつは鼻にかかった低音で一言「田舎に引っ込んでピンサロ嬢やってるらしい」と大吟醸片手にのたまった。僕は無言で傍らのフォークギターを手に取ると、ただただ無心でブルーハーツの「終わらない歌」を弾き語った。令和現在の、彼女の幸福を切に願っている。

 そして、三人目。ここからが本題である。

 カナエとのファーストコンタクトは大学入学からそう日も経たぬ四月下旬、昼休みを利用して行われたサークル説明会でのことだった。

 普段、講義で訪れている三号館一階のとある一室。年季の入った片開きドアを抜けるや否や、そこには数にして二、三十人ほどの新入生の姿があり、初っぱなから僕は圧倒されてしまった。新品の五円玉さながらのド金髪に、くるんくるんの巻き髪に、ラリパッパなドレッドヘア。男女比はおおよそ半々くらいであろうか。

 友人のつき添いでやって来たのはいいものの、小心者で内向的で、さらには大学デビューから日も浅いジャリボーイにとってそこは、言わば伏魔殿そのものであった。

 入る大学間違えたかな……などと内心で雪山遭難者のごとく震え上がりつつ、それでいて精一杯の平静を装い、窓際前列の空席にどさりと腰を下ろす。当サークルを牛耳る上級生連中はまだそろっていないらしい。新入生らの楽しげな声がそこらかしこで響いている。

 ここで、よせばいいのに隣の友人――彼は既述した、のちのバスケサークル副部長である――が、僕らの一席前に座るガーリーな服装の痩身女子になんの気なしといった装いで声をかけた。

「お姉さんも新入生だよね? 何学部?」

 あわわわわ……。

 友人の、突然の軟派指数九十七パーセントの行動にまるで液体窒素でもぶっかけられたかのごとく凍りつきながら、片や一方でパーティクルなスケベエ心をむくむくと萌芽させる僕。彼の発した軽薄な一言に、テレビドラマで言うところの「第一話」的展開を期待せずにはいられなかったのだ。

 グッジョブ! マイフレンド! 

 僕の変わり身の早さといったらなかった。コンマ数秒の迅速さで畢生のキメ顔を作り込むと、エイトビートを刻み始めた鼓動と共に対象を待ち構え、

「……あ、ええと」

 こちらを振り返った赤茶けたロングヘアが、やや控えめに口を開く。

「経営……学部です」

 耳朶に触れたのは、気の抜けるような、実にほにゃほにゃとした声だった。

 忘れもしない、これがカナエとの出会いの経緯である。

○○○

 説明会終了後、今では名前も思い出せないような腐れ飲みサークルへの入会を思いとどまった僕ら三人は、別れ際にメールアドレスを交換し合った。

 入学一ヶ月目にして早くもゲットした異性の連絡先に僕は、小躍りしながらのロマンティック浮かれモード。お粗末なハミングまで口ずさんでしまう始末。まあしかし、手に入れたまではよかったのだが、いつまでたってもこちらから自発的にメールを送ることはなかった。

 実は当時、僕には恋焦がれている女性がいた。三つ年上で帰国子女の、ミュージシャン志望の女の子。仮にAさんとしよう。

 ここだけの話、僕は中野サンモール商店街を一往復するまでのごくわずかな時間に計四度の一目惚れを経験したことがある。それだけ惚れっぽい人間だということを理解したうえで聞いていただきたいのだが、つまるところ僕は、カナエに気持ちが傾いてしまう可能性を危惧し、必要以上に彼女に深入りしないよう自制していたというわけだ。

 ただでさえカナエは、僕好みの女の子だった。教室の隅の方に何人かで固まっていそうな地味な存在ではあるけれど、大人になったとき、意外とあのコかわいかったよなあ、なんてふと思い出しては感慨に浸ってしまうような、至極絶妙な面立ちの薄顔美人だった。

 だからこそ僕は、カナエとの距離感を徹底した。一定のハート・ディスタンスを保った。

 同い年、同じ大学、病的なまでの色白という三点の共通項のみでつながった男女二人の関係性は、密になることもなければ疎遠になることもなく。そして日々は一年、二年といたずらに過ぎ去っていった――。

「はーあ……」

 二十二歳、夏。周りの同期らが卒業に必要な単位をほぼほぼ取り終え、インターンや就活に精を出している頃、僕は相変わらず週五でキャンパスに入り浸っていた。何も大学好き好きマンだったからというわけではない。二年、三年次に講義をサボりにサボったツケが、このときになって一気に回ってきていたのだ。

 つるんでいた同学部の連中とも週一回のゼミくらいでしか顔を合わせることがなくなり、カナエに至っては学部すら違うため、もとより少ないエンカウント率は言わずもがな激減。たとえるならば初代ポケモンの、トキワの森のピカチュウ並みにレアなキャラと化していた。

「……ん?」

 今、鎌倉に向かってるんだけど、よかったら一緒に食べ歩きでもしない? 原文ママのそんなメールが己がW61SHに届いたのは、とある平日の昼下がりだった。僕は思わず液晶を二度見する。なぜなら送信者がピカチ……もといカナエだったからだ。思えば、彼女からメールをもらったのは大学一年の冬以来であった。

 何が悲しくてこのしみったれた留年寸前モラトリアム・バカ一代を誘ってきたのか甚だ疑問でしかなかったが、しかし理由を尋ねるのも野暮な気がして、彼女からの誘いを弾丸承諾。一限終了後、ちょうど折よく池袋周辺に繰り出していた僕は、そのままJR湘南新宿ラインに乗車し、得体の知れぬ胸のざわめきと共に、おおよそ一時間弱かけて同期の待つ街へと向かった。

○○○

「来てくれてありがとね」

 老若男女が雑多に入り混じる鎌倉駅東口。改札を抜け出てすぐの案内板付近に、カナエは後光を背に一人佇んでいた。僕は不覚にもドキリとしてしまう。涼しげなストローハットにショート丈のワンピース、足元はぺたんこサンダルという夏の王道ファッションは、なぜだかいやに現実感がなく、それでいて男心をむずと鷲掴むものだった。

「友達にドタキャン食らっちゃってさあ……それでいろんなコに連絡してみたんだけど全滅で。君なら暇そうだし、ちょうどいいかなって」

「埋め合わせ要員的なそれですか」

「違う違う」

 あはは、と形のいい犬歯を太陽光に反射させつつ否定さえしているが、しかし全身から滲み出る図星感は否めない。まあそんなことだろうとは思っていた。僕は心で強がりながら、一欠片ほどの淡い期待をトルネード投法でもって宇宙の果てへと葬り去る。

 いまいち盛り上がりに欠けるやり取りを二、三分ほど続けたあと、カナエの「有名な商店街……だっけ? どこにあるか知ってる?」の発言により小町通りをぶらり散策。平日の観光地に思ったほどの混雑さはなく、僕らは偉く快適に、観光客感丸出しで食べ歩きに興じた。

「ねえ、ちょっと江ノ島のほうまで行ってみようよ」

 午後三時過ぎ。カナエが抹茶ソフトクリームを舐めながらそう提案したのは、小町通りから鎌倉駅に戻る道中でのことだった。

 徐々に不穏な雨雲が垂れ込め始めた空の下、僕は冷えたカルピスソーダ片手に同意する。江ノ島にはこれまでに何度か訪れたことがあり、ガイド役を買って出る自信があった。

「いいね、行こうか」

「やったあ!」

○○○

 パラパラと降り始めた予報外れの雨は、いつしか本降りとなっていた。

 現在地は長谷である。江ノ電乗車後、カナエの気まぐれにより当駅で途中下車していた僕らは、高徳院からの帰り道、県道三十二号線沿いの小店軒先にて雨宿りの真っただ中にあった。

 最寄り駅方面に慌ただしく駆けていく外国人観光客グループに、湿気を孕んだ不快なそよ風に、大粒のしずくに濡れる凸凹のアスファルト。

 せっかくの遠出だというのに、本当に、まったくもってツイてない。僕は、僕の脳内のみに住まう形而上の神様と、そして今朝のお天気キャスターの嘘くさい微笑みを密教祈祷術によって呪わざるを得ない心理状態に陥っていた。

「…………」

 足止めを食らってから、もうかれこれ十分ほどが経つだろうか。僕の右方五十センチで膝を折り、地べたにしゃがみ込んでいるカナエは、つまらなさそうに黙したまま、轟々と降りしきる雨をただぼうっと見やっている。片やその様子をチロチロと盗み見ながら、気の利いた言葉の一つも紡げずにいる「ロンドン・コーリング」のパロディTシャツ男は、自己の不甲斐なさに心底落胆中。

 何か言わなければ、と思う。この気まずい空気をどうにか打ち消さねば、と強く思う。

 湘南ナンバーのカワサキが荒っぽいエンジン音と共に目の前を通り過ぎた直後、汗で湿った右手を意味もなく握り、

「そういや、彼氏とは相変わらず順調なの?」

 他に振るべき話題はいくらでもあったろうにとちょっぴり後悔しつつ、しかし言い切ってしまったものは仕方がない。

「あー、うん……」

 カナエには大学二年の秋から交際している一つ年下の彼氏がいる。彼女がアルバイトとして勤めているレンタルビデオ店の後輩で、名前はダイスケ。友人情報によると百八十センチオーバーの慶應ボーイで、中性的な顔立ちのジャニーズ系イケメンらしいが、僕自身、彼の姿を拝見したことはない。

「先月、別れた」

「へ?」

「今日もね、本当はカレと一緒にここに来るつもりだったの。楽しみにしてた手前、諦めきれなくて……結局来ちゃったんだけど」

 つき合わせちゃってごめんね。カナエはいつになく抑揚を欠いた声でそうつけ足し、上目遣いでこちらを見ると、ばつが悪そうにぺこりと頭を下げた。

 僕はまるで予想外の展開にどう反応していいかわからず、ただただうろたえ、どもり続けるばかり。しかし、そんな様子を意に介することもなく、カナエは二の句を継いだ。

「江ノ電ってさ、全部で十五駅あるんだって」

 話題の振れ幅に確かな戸惑いを覚えながら、それでいて彼女の言葉にじっと耳を傾ける僕。

「今からね、すっごく恥ずかしい表現するよ?」

「はあ……」

「カレとの心の距離を江ノ電にたとえるなら、鎌倉からスタートした気持ちはたぶん、江ノ島の手前くらいで停まっちゃったんだろうなあって、そう思ったの」

「鎌倉以上、江ノ島未満……か」

「そんな歌、あったよね」

「うん、あった気がする」

 鎌倉以上、江ノ島未満。心でもう一度つぶやく。彼氏でさえ腰越停まりならば、差し詰め自分への気持ちは長谷停まりといったところだろうか。何気なく思った直後、自嘲気味な微笑が無意識のうちに口元を歪ませた。

 それから、どれほどの時間が頭上を通り過ぎただろう。

 やがて雨はやんだ。晴れ間こそ見えないものの、それまでの無慈悲たる豪雨が嘘のように、ぴたりとやんでしまったのだ。二人の二十二歳は晴れ晴れとした表情でもって歩道に出ると、長谷駅へと続く道を再び歩き始めた。

 道中、どういうわけかカナエは終始笑顔だった。まつ毛の長い、切れ長の瞳をこれでもかと細め、ケラケラと楽しそうに笑っていた。

「何がそんなにおかしいのさ」

「別にー」

 釣られて僕も笑う。笑いながら、こんな日々がずっと、永遠よりも長く続けばいいのにと、ねずみ色の空に願う。

 結局――江ノ島を訪れることなく、僕らは別れた。

 鎌倉で口にしたカルピスソーダの十倍は濃厚であろう一日が、もうすぐ終わりを告げようとしている。

 別れ際、人でごった返す池袋駅構内にて「就活頑張ってね、ロックスターくん」とのたまったカナエ。地元市内のキャリアショップからすでに内定をもらっている彼女は無論、余裕しゃくしゃくの表情である。そんな同期を前に、先日、とある中小企業の集団面接を無断欠席したばかりだという事実を打ち明けることなど到底できるはずもなく、僕は一言「任せてよ」とおどけて見せた。

 一駅、二駅と、郷愁の東武東上線は住まいのあるローカル駅を目指し、ぐんと加速していく。

 有線イヤフォンを両耳にはめ込みながら、何気なく見やった車窓に映るのは、赤々とした夕陽のグラデーション。印象派の絵画染みたその景色は、今日という一本の映画――題して「鎌倉以上、江ノ島未満」のラストシーンを飾るに相応しい、実に造りものめいた美しさだった。

#磨け感情解像度 コンテストにおいて本記事が佳作受賞&インフルエンサーの滝沢ガレソ様が当作品をTwitter上でオススメ記事としてご紹介してくださいました。心から感謝致します。


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