イタリア料理 成立過程~高須賀の美食入門13~

まずはイタリア料理の成立過程をざっとつかむこととしましょう。古代ギリシャ時代~現代に至るまでのイタリア料理の流れを把握できるようになると西洋料理の文化史が根本からわかり、理解できる範囲がグッと増えていきます。

後で述べますがフランス料理も元をたどればイタリア料理に行き着きます。西洋の料理を理解するにあたって、まずイタリア料理を理解することは非常に大切な事なのです。

どこの国の料理であるかに関わらず、ある国の料理文化成立過程をたどる際に抑えるべきポイントが3つあります。一つ目が民族、二つ目が宗教、三つ目が地理・文化的側面です。その事を念頭において読み進めていって下さい。

~古代ギリシャ時代~

西暦前の時代、イタリアという国の概念がまだ生まれる前の話になります。長靴のような形をしたこの地に、2つの民族があらわれました。


南の今で言うところのナポリやシチリアの辺にはギリシャからの移民が、中央の今でいうところのローマやフィレンツェの辺ではエルトリアという東方からの民がそれぞれ住み着くこととなります。

この頃の料理はというと、まだ道具も調理環境も整っていなかった為、直接火で焼いてものを食べていたようです。現在ではコンロをひねるだけで火が簡単にでて、鉄のフライパンやお鍋があるのでその有り難みを感じにくいですが、そもそも料理ってかなりの技術革新がないとキチンとしたものは作れません。ほんと現代に生まれた私達は幸せですよ。


食事内容としては南方のギリシャ人は海が近いという地理的な利点もあり、マグロ、ウナギ、メバルなどの魚を、中部のエルトリアの人々は山が近い場所で暮らしていたという事もありイノシシ、羊、山羊、牛、鶏、ハトなどが中心でした。調理方法は炭火焼きが多く、これらにオリーブオイルやチーズをかけて食べていたようです。なおパンは紀元前3500年ほど前に開発されていたようで、この頃から既に食べられていたようです。


このように西暦前のイタリア半島では南はギリシャ人、中部から北はエルトリア人が暮らしておりそれぞれ独自の文化を形成し、相互に交流を行っていました。しかしその後現在のイタリア・ローマ地区に古代ローマ人の勢力が誕生し、だんだんと滅びへの道をたどっていくこととなります。


古代ローマ人の力は西暦前5世紀頃から次第に強くなり、結果としてギリシャ、エルトリアの国は西暦前3世紀頃にはすべて滅ぼされ残された人々はローマ人と同化する事となりました。ただ支配民族が変わっても食文化はギリシャ、エルトリアの文化がその当時の人々に愛されていたようで、その後も色濃く影響が残り続ける事となります。


~古代ローマ時代~

古代ローマ時代の食事事情も当初こそ小麦で作られたお粥、野菜、果物、オリーブの実、チーズといった質素なもので構成されていたようですが、その後エジプトや中近東等の各国を支配するようになるにつれて、異国の珍しい食材がもたらされるようになり、それと共に食文化も大いに向上していくこととなります。


余裕のある人間の楽しみは昔も今も変わらないようで、この頃から徐々に当時の支配階級を中心としてグルメ志向が強くなっていくこととなります。それと共に腕の良い料理人が重宝される事となり、職業人としての地位も向上していきました。


食事事情におけるこの時代の一つの革新点としては調味料の開発があげられます。当時ガルムと呼ばれていたそれは、魚の内臓を何十匹分も掻き出して20日間熟成させたものだったようです。現代でいうところの魚醤(ナンプラー)のようなものと言えます。ローマ人はこれを肉・魚問わずあらゆる料理にたっぷりとかけて使っていたようです。この点、この時代の日本料理との共通点が見えてなかなか面白い(詳しくは日本料理編でまた解説します)


料理自体は備品がまだまだ未発達であったため、丸焼きや煮込みといったものしか出されていなかったようですが、この時代の人達はとにかく大食だったようで紀元前一世紀頃に書かれたアピキウスの料理本である「食の芸術」という本によると、当時の人々の食事メニューは以下の様なものであったとのことです。

①前菜 

半熟卵のガルムがけ

たっぷりと胡椒をかけたカニ、エビ、ザリガニの肉団子 オリーブの実とザクロを添えて

ヤマネ(リスに似た小動物)の丸焼き

② メイン

魚の煮込み(ヒラメ、ボラ、チョウザメ、カキ、タコ)

肉の丸焼き(イノシシ、羊、山羊、豚など)

野菜の付け合せ

③デザート

リンゴとザクロのフォッカッチャ 蜂蜜をかけて


なんと全部で7皿にもなります。とてつもない大食いの遺伝子を感じます。。。なおこんな豪勢な食事をしていたのは当然支配者階級に限られた話で、下層等級の人々、小麦を水で溶いて練って作ったポレンタといったものを主食とし、これにヒヨコ豆やヒラ豆を水につけて柔らかくした野菜スープを食べてひもじく過ごしていたようです。


現代では貴族であれ庶民であれそう食生活に違いはないのでピンと来にくいかもしれませんが、どこの国でも近現代に至るまで貴族と農民の食生活は大きく異なっていました。ただ結果としてこの対立構造がイタリア料理を上手く発展させていくことにもなります。


~ 暗黒時代~

こうして豪勢な食事を楽しんでいた古代ローマの人々ですが、その栄華が永遠に続くわけでもなく段々と周囲のゲルマン人からの侵略を受けることとなります。世界史でも有名なゲルマン民族の大移動ですね。結果、古代ローマ帝国は西暦395年に西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂。その後、西ローマ帝国は476年に滅亡する事となりました。先ほど登場したガルムもゲルマン人の趣向に合わなかったのか、この頃には消失してしまいました。


ゲルマン人の食文化はというと、とにかく肉、肉、肉の世界だったようで、野菜は全くと言っていいほど顧みられませんでした。イノシシ、アヒル、ツルなどの狩猟でえられた肉をもりもり食べる事が支配者階級では力の象徴とされており、エネルギーの厳選とされていました。


ゲルマン人は調理技術自体には全くといっていいほど関心がなかったようで、とにかく質より量を重視していたようです。食べ方も生の肉をそのまま食べたり(肉を生で食べる文化は当時のローマには無かった)、丸焼きにしたりといった野性味あふれるものが多かった。


そのせいかこの時代はローマ時代と比べて調理技術の進歩は全くなされる事がなく、むしろ後退したのではないかとすらいわれています。この時代は様々な理由で暗黒時代と呼ばれていますが、食生活にもそれはいえることだったようです。


ただ4世紀頃にキリスト教がローマ帝国の国教となった事もあり、ローマ時代からあったパン、ワイン、オリーブオイルの文化は根強く残る事となりました。パンはキリストの肉体であり、ワインはキリストの血でありました。オリーブオイルも灯明をともし典礼に不可欠な道具でした。長期的な観点で見れば、キリスト教はイタリアの食文化を根底で支えていたといえるでしょう。


それに何でもかんでもゲルマン人の文化に置き換えられてしまったわけでもなく、根底ではギリシャ・ローマ的文化の中にゲルマン系の文化が対立しつつ癒合していった姿もみることができます。


例えば現在のイタリアでもよく食べられているズッパ(パンを浸したスープ)はゲルマン語のsuppaが元となっているといわれています。これは冷めて固くなってしまったパンを、暖かくしなおして食べるための知恵と言われています。元は焼きたてのパンを食べることができない人の為の貧乏人料理でしたが、イタリアの人々はこれを上手く取り入れて、現在にいたるまでズッパはイタリアの重要な国民食の一つとなっています。


古代ギリシャ・古代ローマ時代もそうでしたが、支配者階級が変わってもいい食文化を出来る限り残していこうとするその姿にイタリア人の食への情熱を感じます。


~アラブ人によるシチリア侵略~

この頃一つの大きな転機点がシチリア島に起きることになります。西暦827年にアラブ人がシチリア島を支配したのです。そして様々な料理技術がシチリアで発達する事となりました。


当時のアラブ人は先進民族であり、天文学、数学、幾何学、科学などの高度な技術を持つ民族であり、治水や灌漑といった優れた農業技術も持っていました。そしてそれまで無かった米、サトウキビ、桑、オレンジ、サフラン、アーティチョーク、レモンといった新しい植物をこの地にもたらしました。アーモンド、ピスタチオ、ハチミツ、リコッタチーズを用いた菓子類(カッサータ、カンノーリ)の作り方をヨーロッパに初めて持ち込んだのもアラブ人だと言われています。


このようにアラブ人はイタリアの食文化に様々な影響を残しましたが、その中でも最も重要なのは乾燥パスタの開発だといわれています。パスタというとイタリア人のアイデンティティなのでイタリア発祥だと思われがちですが、少なくとも乾燥パスタに関して言えばアラブ発祥だといわれています(生パスタは北イタリアが発祥)。小麦を乾燥させて長期保存可能なようにする技術は砂漠が多いかの地で生まれやすい文化だったのでしょう。


乾燥パスタの発展はとどまることをしらず、14世紀になるとある程度、生産技術も改善されていき、イタリア南半島へとシチリア産の乾燥パスタは多量に輸出されるようになりました。当時は航海など比較的長距離の旅が行われる事も多かったので、こうした腐らない食べ物は大変重用されたのでしょう。結果、パスタ生産はこの地の主要な産業の一つとなりました。パスタに関しては重要事項であるため、また後で系統立てて書きます。


結局アラブ人の支配はその後250年続きますが、その後シチリアはノルマン人による支配に移り変わります。ただ食文化はそれまでのものがかなり尊重されたようで、引き続きシチリアはイタリア本国によるものとはやや異なった独特の文化が発展していくこととなります。


~ルネッサンス期~

そして時代は農村社会に基盤をおいた中世的社会から、商工業が発達していくルネッサンスへと移っていきます。産業が発達するにつれて各地に富がもたらされ、その結果ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、ピサ、ローマ、ナポリといった多くの中核都市が形成される事となりました。そして各地に貴族社会が形成され、その中で料理技術は大いに発展していくこととなります。


ルネッサンス初期ではこれらの都市は互いに敵対する国関係にあり、それぞれの中核都市内で独自の文化が形成されることとなります。イタリアは今に至るまで統一する場を持たぬ多中心性の国であり、一つの国の中に多彩な文化が内在していますが、それはこの時代の名残ともいえるかもしれません。


ルネッサンスでは中世の頃と比較して、食文化にかなり変化がみられるようになりました。例えば香辛料。ルネッサンス初期である14世紀から16世紀において、料理で最も重視されていたのは香辛料をふんだんに多用することでした。


これは当時貴重品であり高価であった香辛料を使うことで庶民との差別化を図っていたからで、味というよりも選民意識を楽しんでいたといえるようです。しかし貿易が発達し、香辛料が珍しいものでなくなったルネッサンス中期から後期では香辛料の使用は適量の範囲で抑えられるようになりました。その影響は現代にもみられます。例えばサフランを用いて作られたミラノ風リゾットなどはその一つといえるでしょう。


また肉中心社会であった中世と比較して、野菜が好まれるようになったのもこの時期になります。中世では野菜は貧しい人々がスープに入れて食べるものでしかなかったのですが、ルネッサンス期では野菜は健康によいという認識に改められ、キャベツ、カボチャ、レタス、ソラマメ、ミント、パセリ等のさまざまな野菜やハーブをスープやパイ、フリッター、サラダなどにして食べていたようです。


この頃のヨーロッパでは草を食べるのは動物とイタリア人ぐらいのものだというぐらい野菜の地位は低かったようですが、それにも関わらず野菜をおいしく調理する事に目を向けたというのは、イタリア料理の歴史の中でも核心的な事だといえるでしょう。


そして当時の貴族が農民食であった野菜を自身の食事に取り入れているという点もイタリア料理の優れた特徴の一つです。後でも述べますが、庶民の食文化が貴族の食文化へと逆輸入されるという事が時々みられるのもイタリア料理の特徴で、貴族-庶民の二項対立がほどよくこの国の食文化によい影響をもたらしているのです。


この頃になると活版印刷の技術も生まれることとなり、徐々に料理の技術は書物の形で残される事になりました。いくつか順にみていくと、まず1460年に貴族専属料理人であったマルティーノが料理技術の本を出版します。この中には240ものレシピが収められており、キチンとした調理方法も付記されていました。マルティーノ以前の料理本は自分の技術を外に流出させられる事を当時の両輪が好まなかったからか、調理方法がかかれる事がなかったようで、この点もあり爆発的な流行がみられたようです。


当時の食生活を理解するために、試しにマルティーノの本からレシピをいくつか紐解いてみましょう。例えば肉料理に子豚の丸焼きが記載されていますが、ただ丸焼きにするのではなく胴体を切り開き、内部にハーブやニンニクのみじん切り、胡椒、サフランと細かくしたレバーを入れて背中側を下にしてひっくり返し、じっくりと焼き上げます。焼けたら酢、胡椒、サフランで作られたソースをかけて食べます。既に現代でも通用しそうな調理技術であり、野菜という強い武器を手に入れたイタリア人による食への飽くなき追求心が垣間見られます。


野菜料理だとソラマメ炒めなどが記載されており、これもかなり美味しそうです。油を入れて熱したフライパンに柔らかく煮たソラマメ、玉ねぎ、イチジク、好みのハーブを加えて炒めあわせ、仕上げにスパイスを加えて完成です。これも現代で出されたとしても全然ありでしょう。


マルティーノの次に大きな影響をもたらしたと言われるのがバルトロメオ・スカッピです。彼はその著書「オペラ」で、1000種類ものレシピに加えて、仕事論、食事の構成、調理道具の種類、さまざまな食材の保存方法などの多くのテーマについて語りました。


これだけでもかなり画期的な事でしたが、オペラが核心的だったのは料理の本で初めて地域に根ざした料理を比較対照とした点だといわれています。バルトロメオ・スカッピはイタリアを大きく3つ(ロンバルディア、ローマ、南部)に分類し、各地の料理を紹介しました。主にミラノ、ローマ、ナポリの料理を中心に紹介したようですが、ヴェネチアやフィレンツェ、ジェノバといった各地区にも精通していたようで、それらの記載もところどころにみられるようです。


オペラ以降は地方料理に注目があつまり、バルトロメオ・スカッピのような統一的な著書よりも各地域をさらに深く掘り下げた著書が続くこととなりました。


その後17世紀から18世紀中ごろまでにかけて突然イタリア料理の文献が書かれる事が減ることとなります。これはフランス料理がヨーロッパをだんだんと席巻し始めた事によるイタリア人の文化的劣等感の反映とされており、この頃からフランスとイタリアで貴族を通じて料理の技術が切磋琢磨される事となり、欧州の料理技術は急速に発達していくこととなります。


~近代~

フランス料理編でまた述べますが、実はフランス料理の発展の礎となっているのは1533年にフィレンツェ・トスカーナ大公国・大公の娘、カトリーヌ・ド・メディシスが後にフランス王となるアンリ2世に嫁いだ事がキッカケと言われています。この時にカトリーヌ・ド・メディシスがお抱えの料理人や調理道具、食器などをフランスに持ち込んだ為、フランスに当時最先端であったイタリア料理の技術が流入したのです。


フランス料理というといかにもヨーロッパ大陸の料理会の雄のような印象がありますが、実は歴史的にみると発達したのは比較的最近の事です。少なくともカトリーヌ・ド・メディシスが嫁いだ時はイタリア料理の方が遥かに進んでいました。


その後は持ち前のグルメ根性も作用してか、フランスでは料理技術が大いに発展を遂げ、17世紀近くなると本家本元であったイタリアを抜き去ってしまいました。フレンチの貢献した点としてソースという概念を発達させた点が大きく評価されており、今度は北イタリア・ピエモンテ経由でフランス料理の技法がイタリアにもかなり流入される事となります。


こうしてフランス料理の影響が色濃くなった後、やはり愛国心が煽られるからなのか再びイタリア料理を総括した本が出される事となりました。それが1891年に初版が出されたペリグリーノ・アルトゥージによる「料理の科学と美食」という本です。


アルトゥージの本にはそれまで書かれたイタリア料理本と比較して4つの革新点がありました。第一に、それまで書かれてた料理書からフランス語を廃しイタリア語へと置き換えた事があげられます。正当なイタリアの専門用語を確立する試みは当時の料理人に大変評判がよく、これによりフランスからの呪縛から逃れられたといわれています。


第二の点として、アルトゥージの本は一般向けの記述が多かった事があげられます。「料理の科学と美食」を読むと、レシピは当然のっているのですがそれに加えて料理そのものについてのエッセイ調の文書が載せられており、読み物としても楽しめるような構成になっているのです(冗長といえばそれまででもありますが)それまでの料理本は庶民よりもプロの料理人に向けて書かれたものが出版されていた事もあり、親しみやすいアルトゥージの本は爆発的な流行に一役買いました。


第三の点として、読者からの情報を積極的に取り入れたという事があげられます。実はこの本、初出では475点の料理が収録されたのですが、その後版を重ねる毎にレシピの収録数が増えていったのです(最終的には790ものレシピがのることとなった)


その為の情報収集の方法がまた面白い。アルトゥージはこの本の巻末に「もしこの本に載っていないレシピがあるようならば積極的に便りを送って欲しい」という一文を載せたのです。現代ではさして珍しい方法ではないかもしれませんが、この当時著者と読者が双方に交流するという事は画期的な事でした。


そして第四の点として、トマトとジャガイモといった新世界からもたらされた食材をイタリア全土に広がるキッカケを作ったという事があります。今では当たり前のようにつかわれているこれらの食材ですが、当初は極めて評判が悪かったのです(別項目でまた詳しく話します)


当時のベストセラーであるこの本が積極的にこれら新世界からの食材を紹介した事が偏見を取り払われる事に繋がったとしても言い過ぎではないでしょう。


これら4点の功績により、アルトゥージは現在に至るまで非常に評価されています。ちょうどイタリアが1861年に独立を果たしたという背景も大きいとは思うのですが、この本をもってイタリア料理という概念が統括されたと評する人も多いです。


近隣諸国であるフランスはパリという中央集権的な美食文化と対比される形で地方料理が評される形を取っているのに対し、イタリアでは各地域ごとの料理がそのままその地区の料理として概念的に独立しているのはとても興味深い事です。


これまで振り返ってきた事からも明らかなように、イタリアという国は多数の民族が集まって様々な文化交流が行われ、それが絶妙に組み合わさって作られた人種のるつぼの国なのです。そして20州それぞれが独自のアイデンティティを有しており、どこをとっても同じ所一つない。しいて言えば"素材の持ち味を最大限に発揮する料理"という特性は見いだせますが、それだけでイタリアという国を一つにまとめ上げるのは正直かなり困難だといえるでしょう。


このような雑多な集合国家に対して「諸君、マッケローニ(パスタ)こそイタリアを統一するものになるであろう」と称した統一戦争の立役者ガリバルディは、やはり大変見る目があったといえるでしょう。パスタという1点を通してイタリア人のアイデンティティを統一するのは、後の世から見てみれば当たり前すぎる事でありますが、だからこそ凄い。しかも統一宣言でこれを言い切るのですから。やはり偉人は一枚も二枚も上手です。


なおここでは意図的にパスタの歴史を省きました。ガリバルディがイタリアを統一するものと評したパスタの歴史はそれだけでかなりの分量になってしまい文章にまとまりがつかなくなると判断したからです。パスタについては別項目で詳しく解説するので、そちらを参照して下さい。


~現代~

その後も1950年に2000以上ものレシピを収録し、イタリア本国だけで100万部以上を売り上げた「銀のスプーン」という地方料理統括本が出されるなどの変遷はありましたが、やはりフランスからの影響は免れられないようで1980年台になるとパリでフランス料理を学んだシェフたちにより伝統料理の概念を打ち破った創造的料理が出される事になりました。


この概念を作り上げたものとして有名なのがミラノの料理人グアルティエロ・マルケージです。35歳までフランス・ミシュラン三つ星のトロワグロ等で修行をおさめたマルケージは、それまであった「イタリア料理は地方料理である」という命題を覆し、「ヌオーヴァ・クチーナ・イタリアーナ=新イタリア料理」という概念を打ち立てました。


それまでの前菜・プリモピアット・セコンドピアットといった一品一品をドカッと出すような料理の提供の仕方ではなく、一皿一皿の量は少しであるものの、沢山の皿を盛り付けを美しくして提供する技術をイタリア料理に取り入れることに成功したのです。


それまでもこういった少量多皿で構成されるコース料理を試した人はいたようですが、大食漢でもあるイタリア人には非常にウケが悪く全く流通しませんでした。


しかしマルケージは盛り付けを美しくする事でイタリア人の美的センスに訴えかける事に成功。その美的センスは評判になり、結果「ヌオーヴァ・クチーナ・イタリアーナ」として認められることになりました。


これはフランスで一大ムーブメントを巻き起こしていたヌーベル・キュイジーヌの良い点を上手くイタリア料理に取り入れ、イタリア料理に新しい風を巻き起こしていたとしてマルケージの功績は非常に評価されています。


~今後のイタリア料理の展望~

古代ギリシャ時代から現代まで、ざっとイタリア料理の歴史をたどってみました。今後イタリア料理がフランス料理のような形を追従するのか、それともまた地域ごとの郷土料理に回帰していくのかは興味がつきないところです。


恐らくですがしばらくの間は「ヌオーヴァ・クチーナ・イタリアーナ=新イタリア料理」という洗練された料理と、原点回帰としての郷土料理という2つの軸の間でイタリア料理は揺れ動きつつ、発達していくのではないかと思います。


総括するとイタリアという国の特徴として

1. 古代ギリシャ人、エルトリア人、ゲルマン人、アラブ人、ノルマン人等の多民族による影響が入り組み癒合してできている。そして根底にはキリスト教の思想が流れている。

2. 中央政府があり、それに他が追従するという形の国家形態ではなく、各地方が地方ごとに独立した多中心的国家である。

3. そんな異なる文化が入り乱れた集合国家であるにもかかわらず、パスタという1点のみは共通して愛されている。


という事があげられそうです。一美食家としてはイタリア料理を楽しむにあたって、これら歴史的背景を把握し、歴史の重みに畏敬を持って接していきたいものです。


次はイタリアを統括する存在である、パスタの歴史をみていくこととしましょう。

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