45歳独身狂う説の背景ロジックと、なぜ結婚がその解決策になるのかについて

45歳独身狂う説とは個人的幸福追求の寿命の事である、とつぶやいたら結構バズった。

せっかくなので、この事についてもうちょっと思想背景のようなものを書いていこうかと思う。


似た者同士は集まりあうんだな…

この思想が生まれるのにもっとも直結したのは僕自身のクビだ。


僕は今まで都合2回ほど社内政治のようなものに負けてクビを食らっている。


これは言うまでもなく僕が色々と問題児だというのはあるとは思うのだが、そもそもどうしてそんなメチャクチャな職場を選んだのかを考えると、それは

・ホワイトで
・仕事が少なくて
・給料がそこそこいい


という職場を選んだからだった。


逆に、この上限の真逆であるブラックで、仕事が多くて、給料が安い職場にいる時は、ほとんど人間関係に問題が起きた事はなかった。


いったいどうしてなのだろう?と疑問だったのだが、僕が思うに、ホワイトで仕事が少なくて給料がいい職場に、自分から進んで転職活動を行う人間というのは、そもそも物凄いジコチューな人間なのである。


こういう自分さえよければ他はどうでもいいと言わんばかりに、忙しくて回っていない厳しい医療現場から逃げ出すようにして転職活動をやる人間というのは、そもそも仲間への愛情のようなものが希薄である。


まあ、これを書いている僕自身が職場の人間関係なんて所詮ファンタジーで、職場はラクして金をもらう場所だとしか思っていなかったっていうのはあるのだが…そして類は友を呼ぶで、そういう職場に応募する人間というのは、”そういう”人間なのである


まとめると利己主義を貫いたら、嫌な奴ばっかりしかいない職場にたどり着いたというわけだ(だから45歳で個人主義を貫くという決断を下した人間は、アレになるのだろうという予感もあり、”狂う”と個人的には記述した)


マイケル・サンデルへの疑問が解決した

ハーバードの有名教授であるマイケル・サンデルの本を読んだ時に、彼がコミュニタリアンを自称しているのが物凄く不思議に思ったのを今でもよく覚えている。


それまで僕は、共同体というのはあくまで貧しい個人が仕方がなく徒党を組むものであり、豊かになった個人はリバタリアニズムのような自由主義に至るものだとしか思えなかったのだ。


しかし最近になって、エマニュエル・トッドが「私達は核家族を進歩した存在だと思っているが、そもそも核家族は原始社会で発生するものであり、進歩した社会ではむしろ共同体の規模はどんどん大きくなる」と主張しているのを読み、随分と考えが変わってきた。


医療なんかだと、例えば個人の開業医というのは提供できる医療のレベルはそこまでは高くはない。


一方で大学病院やがんセンターといった大規模病院は、とてつもなくハイレベルで難しい医療が提供できる。


そしてハイレベル施設で働いている超優秀な個人が独立して一人で高度な医療を提供できるかというと、そんな事は全然ない。


結局のところ、集団で働かなくては人は高度な事はできないし、そして集団で働く為の能力や知恵がなくては、そもそも大規模集団では働けない。


こうして考えてみるとである。コミュニティというのは、助け合いの為に徒党を組んで構成されるものではなく、むしろ高難易度な事を成し遂げる為に、強い人間達があえて構成する為の存在だとも言えるのである。


こうして、僕は共同体主義とは、消極的な理由で設計されるようなものではなく、むしろ積極的な意味合いで構成されるものだという事を理解した。


というか、弱者が身を寄せあって作り上げる共同体というのは恐らく幻であり、むしろ強い人間にしか共同体というのは構成できない性質のものだ。サンデルがコミュニタリアンを名乗るのは、彼がむしろ真の意味でのハイスペだからだろう。


昨今話題の、研修後に即美容医療に行って年収数千万みたいなのは、カネとQOLだけで言えば、確かに行かない理由など何処にもない。


しかしここまで書いてきた事からわかるとおり、結局のところそれは単なるジコチューでしかなく、自分自身が共同体の構成員であると胸を張って生きれるような存在ではない。


もちろん個人的幸福追はラクでQOLのよい領域に行けばある程度は叶えられるのだが、問題は”金で買える幸せは、飽きる”という部分にある。


酒は飲めなくなるし、メシも食えなくなる

生まれてから45歳ぐらいまで、人間というのは基本的には若い


だからよほどの大きな病でもやらなかさなかったら、多くの人が人生というのは快楽をどこまで楽しむのかというワンダーランドだと思っても、別に不思議ではない。


僕自身も、まあジコチューなリバタリアニズムみたいなのをだいぶ先鋭化させてきた。100万円のワインを飲み、恐らく実現可能な美食はほぼやり尽くし、サウナで宇宙の果てに飛ぶような事もした。旅行も散々やった。


そこまでやっておいて思うのだが、38歳にして、自分は快楽に飽きた


別に今でもそれらの事を嫌いなわけではないし、たまにならそれなりには楽しめるのだが、じゃあそれが無かったら死ぬみたいな若い頃のテンションでそれらには、どうしても全力では突っ込んではいけない。


ついに自分も老いたのだ。


恐らくなのだけど、自分も40代手前になって、消化能力が落ちてきてしまったのだろう。それまでは胃は無限に食べ物を一日で消化し、酒で二日酔いなどにはならず、寝なくても疲れなどたまらず、脳は情報を新鮮なものとしてザクザク処理できていたのである。


しかし、たぶん自分の身体は、もうそういう暴飲暴食のような事ができなくなってしまった。厳密にいえばやれなくはないのだが、それをやっても辛いだけで、全然楽しくはないのである。


ここにきて、自分はマイケル・サンデルがなぜ自分はコミュニタリアンだと主張するのか、エマニュエル・トッドがなぜ共同体こそが高度な社会的存在だと主張するのかを理解した。


個人が老いてから人生をポジティブに楽しむ為には、共同体にアイデンティティの主軸を移すほかないのだ。


僕という個人は、45歳のだいぶ手前である38歳の時点で、既にもう十分満たされてしまい、成仏しつつある。


そういう解脱しつつある自分が、人生の折り返し地点である今、これまで以上に楽しく人生をやろうと思うのなら、積極的に共同体構成員をやる事でしか満たされないというのが腹の底から”わかって”しまったのだ。


ブラックで仕事が多くて給料が安い職場に、愛着が湧いてきた

こうなって初めて、自分は出戻りとなったウルトラスーパーブラック病院の事が好きになれてきた。


これまでは過労を強要するくせに給料が安いこの組織が、社会悪だとしか思えなかった。


だが、最近は


「まあ忙しいからお金を使う暇がないから給料は安くても別になんとかなるし」

「仲間は多くて、社会性も勉強できて楽しいし」

「なによりジコチューが居ないってのが、最高すぎる」


というように、全く別の角度から見直せるようになった。待遇が良いホワイト企業に行けた所で、あんなワガママで嫌な奴みたいにしかなれないのだと理解したのも大きいと思う。


結局、人間にとって一番根深い問題は人間関係の悩みだというが、自分の事だけを考えるような人間が集まるような場所というのは、ある意味では究極の闇鍋みたいな職場だとも言える。自分の独善的な価値観の中でしか生きられない個体は、どう考えても見下げた存在でしかない。


人間は忙しいと余計なことを考える必要がなくなる。だから大規模施設でメチャクチャに難しい仕事に取り組んでいると、変な政治的な事に頭を使う暇が一切なくなる。


逆にヒマな施設に所属し、あまつさえ使い切れないようなカネを渡されると、ジコチューはどんどん病む。


SNSなんかでよく他人を馬鹿にしてキラキラと贅沢品を見せびらかしている人間というのは、究極的には個人主義が終わりきったら、差別ぐらいしかやることが無くなるという事の証明なのだと思う。人間が個人主義を加速していったら、行き着く先はアレしかないのだ。


他人と一緒に暮らすという事

と、ここまで結婚の話が一ミリも出ていないのだが、これまでの話を踏まえた上で、自分は結婚というものには凄い価値があると最近になって思えるようになった。


というか、結婚ぐらいしか、このジコチューを解毒する方法はないんじゃないかとすら思っている。以下でその理由を説明していく。

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