スクリーンショット_2019-07-05_17

夢の扉をひらいた日 ①

 私の夢はソングライターになることでした。『涙くんさよなら』の浜口庫之助のような、詞と曲を書く作家になりたかった。

 1993年冬。私はデモテープを握りしめ、都内某所の音楽事務所のドアをノックしました。テープの中身は1980年代から作りためた数十曲。ボーカルはとりあえず自分の声で吹き込みました。

 知人の紹介で訪ねたのは、編曲家やエンジニアが所属する小さな事務所。社長は東京の家とロサンジェルスの家を行き来しながら杉山清貴やジャニス・イアンのレコーディングに参加する腕利きのエンジニアでした。社長もスタッフも知的な優しい人たちで、オフィスには社長の家のレトリバーが遊びに来ていました。

 デモテープを聴くなり社長はこう言ったんです。
「シンガーソングライターでデビューして、名前を売ってから作家へシフトした方が早いよ」

 えっ。

 人前で歌うなど考えもしなかった私は返答に窮しました。そもそも自分の声が好きではなかった。

 「君の声を好きになる人は世界に一定数いると思う」

 社長の笑顔に背中を押され、私は半分とまどいつつもこの事務所でシンガーソングライターへの階段をのぼることにしたんです。

 事務所にはもう一人、シンガーソングライター志望の若者がいました。ナガハタゼンジくんという、ポップなメロディを書くバンド少年。彼は一足先にアルバムデビューを果たし、その後TOKIOに楽曲を提供したりしていたと思います。

 歌手ってのは三度の飯よりも歌うのが好きな連中が目指すもんだろ。おまえ、もう34歳だろ。そりゃそうだけど、予想外の展開に乗っかるのもまた楽しそう……私の頭の中はガヤガヤしていました。写真は当時の私。心の中の葛藤が顔に出にくいタイプです。

画像1

 私の手持ちの楽曲はどれも、他のアーティストへの提供を想定したものばかり。自分で歌うには難しすぎる曲もありました。たとえば『ぼくの氷の鎧』は、布施明さんに歌ってもらいたかった。

 しっとりバラード系に編曲し直しても良いかもね。音飛びの激しいメロディを布施さんなら、さらっとなめらかに歌い上げてくれそう、そんなことを事務所のスタッフの人たちとよく話していました。

 学生時代に英語演劇サークルにいた私は、英語の楽曲もいくつか作っていました。
 フィル・コリンズが新譜用に楽曲を探している。そんな情報がアメリカから届いた時は、事務所のスタッフと一緒に盛り上がりました。私のテープを送ってみようかという話になったんです(実際に送ったか不明)。たとえば『This Garden Man』をフィル・コリンズが歌ったら、どんな感じになっていたでしょう。

 1994年。夢への扉をひらいた私は音楽事務所に足繁く通いながら、もっと自分の声質を生かした、自分らしい歌を作らなければ、そう思いはじめていました。

(つづく)

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 ここまで読んでくださってありがとうございます!
 家族にも親友にも話したことがない、四半世紀前のできごとです。なぜ今書こうと思い立ったかは最後にお話しします。「ああ、そゆこと」と思ってもらえたらうれしい。あと2、3回つづく予定です。よかったらお付き合いください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?