マリオ・バルガス=リョサ『楽園への道』

マリオ・バルガス=リョサ『楽園への道』田村さと子訳

東西冷戦が終わり「歴史の終わり」が訪れてからもう30年経ってしまう。冷戦の中で、西側諸国は資本主義体制下での自由なユートピアを東側諸国では共産主義体制下での平等なユートピアを夢みていた。しかし、現在はどうだろう。共産主義という200年ほど人類が夢見た平等な社会という夢がソ連崩壊を機に一瞬で崩れ去ってからというもの、資本主義社会で常に過度な競争にさらされ、資本主義以外の社会体制という夢を見ることも叶わず、日々淡々と資本主義という悪夢を見続けている私たちにこの作品は夢をみるという処方箋を提示しているのではないだろうか。

この作品は1803年にフランスで生まれたアナキストであり、フェミニストであるフローラ・トリスタンとその孫で1848年に生まれた画家のポール・ゴーギャンの2人に焦点を当て労働者と女性を解放し社会的な正義を目指し全ての人にとって平等な楽園(ユートピア)を夢見た人物と社会的宗教的な規範から逸脱し、自分の理想とする芸術を追い求め、個人的な楽園を夢見た画家という対称的な夢を追い人を通して個人がそして社会が発展の途上にあり、今よりいい未来を想像することがまだ容易だった19世紀という時代を描き出しているように私には思える。

フローラは生まれからしてアウトサイダーだった。男のみが人類であるとされた時代に女性として、そしてさらには私生児として生まれた彼女は女工として早くから働き、結婚するが支配的で暴力的な夫から逃れる。当時のフランスでは妻は夫の持ち物であり逃げ出すこと自体が罪だった。そんな中親戚の住むペルーを旅し、旅行記を発表したり、産業革命真っ只中のイギリスの労働者階級の実態を知るために男装しながら調査し、その実状を発表したりと社会活動家として活動し始め、フランスの各地に労働組合を樹立する為のキャンペーン旅行に出、その途上で倒れる。

一方ゴーギャンは20代中盤まではブルジョワとして証券取引人として結婚し、5人の子をもうけ社会の規範に沿った常識人として生活していた。しかし、ある時芸術に目覚めてしまう。それからは妻子を放って放浪したり、極貧の中だっりゴッホとの生活を送りながら最終的にタヒチにたどり着く。

この作品はそんな2人の人生を奇数章ではフローラを偶数章ではゴーギャンを並列に語る。またその中で回想を入れることでキャンペーン旅行中のフローラの現在と彼女の過去、タヒチで生活するゴーギャンの現在と彼の過去という4つの次元と2人に語りかける作者の視点の5つの次元を均等にそして有機的に組み合わせることで、正反対の道を進む2人の人生がお互いに共鳴しあい、楽園を求める求道者としての人生が作品の進行と共に明らかになっていく。

共に楽園を求めた2人の人生はどちらかが正しくてどちらかが間違ってるなどといったジャッジを下すことはできない。しかし、2人に共通するのは楽園を目指して一歩踏み出したことだろう。そのアクションこそが2人が夢をみることができた理由ではないだろうか。それは今を生きる私たちにも共通するのではないだろうか。2020年はSNSを通じて様々な社会活動が起こり始めた年といってもいいかもしれない。今の私たちからすれば19世紀に生きるフローラとゴーギャンは眩しすぎるかもしれないがそれでも行動することこそが夢を見れなくなった私たちにとっては重要な一歩になるのではないだろうか。


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