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私が成長できないたった一つの理由

成功に囚われるな。成長に囚われろ。

元サッカー日本代表の本田圭佑氏の言葉です。
万人が成功する訳では無い。
しかし、望むならば成長は誰しも可能であり、直感的にそれは正しく思える。

成功はほんの一握りの人が掴み、他の多くはその過程で挫折し、あるいは妥協しながら、自分の人生との折り合いをつけていく。

何を以って成功と呼ぶのかも人により様々でしょう。
成功するまで辞めなければ必ず成功する。
だから失敗というものは無いのだ。
そう言った文脈で成功が語られる事もあります。

成功したのか、失敗だったのか、そのどちらも恐らくは主観的なジャッジとなり、客観的には失敗に見えても当人はそれを否定する事ができる。
まだ勝負は終わってないのだと。

だからこそ成功までの過程に於いてフォーカスすべきは成長であると言われ、そこにはある程度定量的な評価も期待できます。

スポーツであればそれは身体能力の数値であったり、タイムを縮めたりという話になりますし、ビジネスにおいては売上であったり、資格取得であったりと、とかく成長というのは客観的に過去と現在を比較して評価しやすい。

しかしながら、成長を測るうえで必ずしもそういった定量的評価が出来ない事もあるでしょう。自分の時間をそれなりに投入している。しかし、昨日と何一つ変わらない今日をまた迎え、どんなにもがいても明日に何かが変わるとは思えない。
成長は可視化されず、またそれを実感できない。

私は先日まで、そういった停滞感を強烈に感じていました。


努力しているのに、現実は動き出さない。
停滞している。
このnoteを読んで頂いている方は、もしかしたらご自身にもそんな心当たりがあるのではないでしょうか。

そもそも、そういう悩みを持てる人は成長を望んでいる人で、(少なくとも主観的には)努力を重ねているので、切り口を変えれば、それでも大丈夫と客観的には言えるでしょう。
大丈夫、その努力は必ず報われるよ。そんな耳ざわりの良いアドバイスも頂けるかも知れません。

ところが、こと自分事として考えれば、感情はそう穏やかではありません。
成長の必要を感じ、自分をより高めなければいけないと、ぼんやりとだけど気付いている。
何か行動を起こさなければいけない、だけど何をしていいか分からない。
手探りでいろんな事に取り組むけれど、何一つとして前進している実感がない。
むしろ後退しているのではという焦燥感すら覚える。

漠然とした、明確な答えの見つからない問題。
私達はどのような解決策を考えればいいのでしょうか。

例えば努力の方向であったり、そのメソッドなどが分からないという話であれば、これはどちらかというとテクニックの話で、いわゆるスマホのアプリケーションに相当する話です。
より効率的で使い勝手のよい手法を探して自分にインストールすれば良いので、それこそセミナーに参加したり、書籍やネット情報などにアクセスしながらトライアンドエラーを繰り返すのが正解なのでしょう。

しかし、そういう事では取り除けない、もっと根源的な停滞感を感じる事はありませんか。
魂の奥底にどろりと粘りつく、諦観の色をした何か。
自分自身がもう一段伸びて行くには、ノウハウなどのテクニカルな知識ではない、もっと他の何か決定的なものが欠けてはいないか。

しかして、幸運にも私は先日、その答えと言えそうなものに出会う事ができました。


1月21日にSUNABACO高松で開催されたトークイベントを現地で拝聴しました。正直に告白すれば、憧れの方と会ってお話がしたいという半ばミーハーな気持ちでの参加だった。

その努力、無駄にしたくないなら外に出ろ。高松解呪キャンプ。と銘打たれたエントランス

結果的に、いろんな人が蓄えた知識や経験が集まり絡み合って生まれるその『場』のエネルギーは、私に予想だにしていなかった気づきをもたらしてくれました。

ここ最近ずっと感じていた、努力が空振りしている感覚。
正体不明の停滞感をもたらす呪いのような何か。
それらを消し去ってくれる解決策のヒントとは。
恐らく『私が成長できていない理由』はこれでは無いか、と言いきってもいいかも知れない気づきがあったのです。


それは端的に言えば、

成功への道筋は一つではない。
分析は足りているか。
万策尽きるまで行動したのか。

という言葉でした。
私の迷いと弱さを見透かしたような言葉が登壇者から放たれ、それは深く、まっすぐ私の心を捉えました。
あなたはこれを、ありふれた言葉だと思うかも知れません。
しかし、改めて突き付けられたこの言葉に、私はひとつも反論の余地を持ちえなかった。

結局足りていない。
試行錯誤も、反復も、作業も行動も、圧倒的に足りていない。
どこかでまだ甘えていたんです。本気じゃないから、これぐらいでいい。
知らないうちに自分を許していたのだと気づかされた。

自分の成長に停滞を感じている。そんな時に何を考えたらよいですか?
そもそもそんな問いを持つ事自体がぬるいと言わざるを得ない。
私は全然やり切っていない。
かくして、見て見ぬ振りをしていた無意識の妥協はそのベールをはぎ取られ、新しい焦燥と覚悟の狼煙が心の底から立ち上がるのを感じました。


私が成長できない決定的な理由は、いたってシンプルで、
『行動の量が足りていない。』
これに尽きる事に気付いたのです。


自分はベストを尽くしている。
わずかな余剰時間ですら自己研鑽や副業にあてている。
多くのものを犠牲にして、やり切れるだけの事をやっている。
これらの問いに胸を張ってイエスと答えられる人ならば、恐らく成長できないと悩むことは無いのでしょうか。
結果が出ないならやり方を変えよう。これを試そう。この部分はそぎ落とそう。そういう試行錯誤が習慣になっていると思います。

しかし、もしあなたが正体不明の停滞感・焦燥感に侵されていると感じるならば、その正体は恐らく『見て見ぬ振りをする妥協』では無いでしょうか。

他にやりたい事がある。全力を出すと心も身体ももたない。これぐらいで十分だろう。そんな感情を言語化する事なく、どろりとしたまま心の奥に放置している。まずは、そんな感情を直視する事から始める事が必要かも知れない。



きっと私達は凡人です。
全ての時間と労力を自己研鑽や副業に費やす事ができるのは、それをやり切る固い決意であったり、疲れを忘れる程にその事自体を楽しめる、あるいは楽しくなるような領域に達した人であり、ごく一部の人に限られるのではと思います。

成長できていないと感じる不安の正体、停滞を感じる理由は分かった。
それでも、自分の生活と、他に優先すべきものとの折り合いをつけて、出来る範囲で研鑽を続けていく。行動していく。私を含め、そうならざるを得ない人は多いと想像します。

SUNABACO高松で出会った言葉を共有します。
曰く、成長とは。
雪玉が転がり大きくなる過程を想像して欲しい。成長は二次曲線のような形で、直線では無いから始めは成長していないように見える。
人は、成功者の『成功した後の高み』を見上げるけれども、初めは長い長い低空飛行があったのだ。

また、成長とは螺旋階段のようなものである。
同じところをぐるぐる回っているように見える。
しかし、少しづつ確実に視点は上がっていっている。
一見すれば分かりにくいけれど、焦る必要はない。



少し前に、収益不動産の検討の際の収支シミュレーションを繰り返す作業をバッターボックスに立ってバットを振る作業に例えました。
購入できるかどうか分からないアパートの検討に費やす、一見無駄な営みに見えるそれらの作業をもってして、例え空振りが続いたとしてもバットを振り続けるのだと。


私が停滞を感じていた理由は、まだまだ行動の量が足りていなかった事だと述べました。まだやり切っていないだろう、余裕があるだろうという本心を隠しながら、自分では十分だと思い込んでいた。

誰しも焦る必要はないのでしょう。
螺旋階段を登るように、いつまでも同じ様に見える景色を眺めながら、それでも歩み続ける限り私達は成長して行けます。

これはとてつもない程の救いです。

そう信じていても、どうしようもない焦燥感や停滞感を拭い去れない人がいるならば、自分の心と真に向き合いましょう。
お前はどこまで行きたいんだ。そのために、万策尽きるまで行動をしているのか。どうしても叶えたい夢、理想とする自分があるならば、まだまだ投入すべき時間が足りないのでは無いのか。

自分自身としっかり対話しなければいけない。


繰り返しますが、私達は凡人です。
それでも理想の姿を夢見てしまう。
その夢を叶えずにはいられなくなってしまう。

近づけるか分からないけれど、私は理想の私を追い求めます。
そう決めたからこそ、出会った停滞感・焦燥感を払拭すべく、行動の量を増やす覚悟を決めました。
突出した結果を出している人達は皆、私達が想像もしえない量の行動を繰り返しているのでは無いか。これは確信めいた仮定です。

成長のスピードは人それぞれでしょう。
今のペースで満足できるならば、それももちろん良い状態だと思います。


そしてもし、あなたも私と同じような停滞感・焦燥感を感じ始めたならば、覚悟を決める時がきたのかもしれません。


見て見ぬ振りをしていた妥協を白日のもとに晒し、正面から対峙し、

それを乗り越えていく覚悟を。

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最後まで読んで頂きありがとうございます。
是非感想など頂けますと幸いです。

まっちゃん

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