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2024年4月21日礼拝説教「乳離れした子のように私のたましいは~都上りの歌⑫~」(詩篇131:1~3)

聖書箇所  詩篇131:1~3
都上りの歌。ダビデによる。
131:1 【主】よ私の心はおごらず私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇しいことに私は足を踏み入れません。
131:2 まことに私は私のたましいを和らげ静めました。乳離れした子が母親とともにいるように乳離れした子のように私のたましいは私とともにあります。
131:3 イスラエルよ今よりとこしえまで【主】を待ち望め。

参考聖句 ヨハネ4:21
この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。

参考聖句 詩篇73:21-25
73:21 私の心が苦みに満ち私の内なる思いが突き刺されたとき
73:22 私は愚かで考えもなくあなたの前で獣のようでした。  
73:23 しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりとつかんでくださいました。  
73:24 あなたは私を諭して導き後には栄光のうちに受け入れてくださいます。  
73:25 あなたのほかに天では私にだれがいるでしょう。地では私はだれをも望みません。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号

 説教ノート 
 序
① 主の名を呼ぶ礼拝
② 慎ましい信仰
③ 私と私のたましい   
④ 乳離れした子が母親と共にいるように

乳離れした子のように私のたましいは
詩篇131:1-3
 本日の詩篇は、都上りの歌の12番目となります。わずか3節の短い歌です。しかし、この歌は、一連のシリーズのクライマックスと言ってもよいほどです。
一言お祈りいたします。「愛する神様。あなたを愛するがゆえに、私たちは礼拝をささげ、そのために集まります。それは、インターネット配信や録画であっても、主の福音が告げられ聴かれようとする働きでは同じだと信じます。主よ、お語りください。私たちは聴きます。イエス・キリストのお名前によって。アーメン」。
 
(主の名を呼ぶ礼拝)
 今日、私たちが、この詩篇から覚えますことの第一は、この詩が、主なる神に向かって歌われていることです。この詩篇は人間の心のからくりについて考えざるを得ませんが、その前に押えておかなければならないのは、この詩は主なる神への告白であるということです。
 120篇に始まり134篇まで続く「都上りの歌」のシリーズ。それぞれの歌をまとめたのは誰か分かりませんが、配列にも意味があると思います。
 120篇、信仰者に攻撃を仕掛ける敵がいたのです。
 121篇、自分への助けは〈主から来る〉。旅が始まります。
 122篇、主を礼拝する〈主の家(神殿)〉のあるエルサレムが出てきます。
 123篇、主にあわれみを求めます。
 124篇、敵の罠から助けられたことのゆえに、主を賛美します。
 125篇、主の守りを告白。
 126篇、主による解放や回復に感謝。
 127篇と128篇、仕事や家庭など地上の歩みも祝福を受けました。
 129篇、主に助けられた信仰者は、自分を苦しめていた敵を、遂には呪いました。
 130篇、しかし敵を呪うほどの情念は、自らを深い淵に導いてしまったのかもしれません。深い淵から、詩人は主を求めました。そこで不義の赦し(=罪の贖い)を期待します。主ご自身や、主のみことばを、夜回りが夜明けを待つように待ち望みます。
 そして131篇。本日の箇所でも〈【主】よ〉ということばで始まります。まことの神を正しいお名前で呼べることの幸いが、ここにあります。〈【主】よ〉ということばで始まる130篇と131篇。さらに次の132篇も〈【主】よ〉ということばで始まります。もしかしたら、そして130-132篇が、神殿のなかでの信仰者の祈りなのかもしれません。
 旅を続けて到着したシオンの都(エルサレム)、念願し待ち焦がれていた神殿。そこでの、あふれる神の臨在に期待する祈り。そんな情景を、130-132篇に貼り付けて、想像してもよいかもしれません。
 しかし一方で私たちは思います。イエス・キリストが礼拝の新次元を語られたことを。ヨハネ4:21〈この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます〉。大切なのは、場所ではなく、その礼拝が御霊と真理によって(=霊とまことによって)父なる神にささげられているかです。
 それゆえ私たちはイエス・キリストの福音を覚えて、今日の世界で、まことの神を正しいお名前で礼拝できること(また祈れること)を感謝したいと思います。
 そして5年半以上前に私たちはこの会堂を与えられましたが、しかし、このところに集い得ない方にも〈【主】よ〉と呼ぶことのできる、まことの神のお名前が与えられているとすれば、自宅だろうと、病院や施設や、他の特別な動きがとれない場所であっても、神を礼拝できるし、キリストの名によって祈ることができるのです。
 私たちは2020年から2023年、いわゆるコロナ禍を経験いたしました。日本だけでなく世界中の教会が集まることや礼拝をささげることの再吟味を余儀なくされました。それぞれの教会がベストを尽くしたと思いますが、私は、インターネット配信や動画などで時空を超えて礼拝を共有しようとすることはよいことだと思います。
 イエス・キリストの十字架の福音を中心に、神のことばを聴くことが、私たちの信仰による礼拝であると私は考えます。
 
(慎ましい信仰)
 131:1を読みます。〈【主】よ私の心はおごらず私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇しいことに私は足を踏み入れません〉。
 本日の詩篇には、自分の苦しみが訴えられているのではありません。また、切実な何かが願われているわけでもありません。言ってみれば、自分の決意表明。決心を述べているのです。しかし冒頭に〈【主】よ〉と書かれているとおり、この決意表明は神に述べられています。ですから、神にそれらを言うならば、つぶやきさえも祈りとなるように、これは祈りです。
 何が決意されているのか。〈私の心はおごらず私の目は高ぶりません〉。〈おごらず〉も〈高ぶりません〉も「高くしない」ということです。心では思い上がらず、人を蔑むことをしない、ということでしょう。しかし、何の手も加えないで、私は私のままでいられるでしょうか。虚勢を張らないで私は生きていけるのか。
 自信のない私たちは、とかく〈及びもつかない大きなことや奇しいこと〉に関わるのです。それが、私を出世させた、文明を進歩に導いた、という人もいます。
 ある場所に来たとき、自分が違和感を覚えました。巨大な猿であるキングコングが、アメリカのニューヨークに迷い出て、エンパイアステートビルに上ってしまった、そんな場違いを感じます。
 あるいは、イソップ童話の母蛙のように。牛という未知の大きな生き物に対抗するためお腹を大きく膨らませて、ただひたすら自分の子どもに自分を大きく見せようとして、自分のお腹が破裂するまで続くような話です。
 宗教においても、そうしたことがあります。私がまだ高校生で、クリスチャンになって一年も経っていなかったとき、あるクラスメイトが素直な性格だからと祈りもしないで彼をクリスチャンにしてみせると教会に通う別のクラスメイトに言ったこともありました。実現はしなかったし、クリスチャンではない彼に言う必要もなかったはずなのに、今でいうならマウントを取りたかったに違いないのです。
 129篇で敵をも呪うほど調子に乗り始めた詩人は、130篇で自分の心の深淵に行き当たりました。この都上りの歌のシリーズが、ただのオムニバスでなく、深い意図を持った連作であったなら、そうでしょう。今日の131篇は、まことの神礼拝に進んだ信仰者が、辿り着くべき心境ということになります。〈【主】よ私の心はおごらず私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇しいことに私は足を踏み入れません〉。
 
(私と私のたましい)
 世の人たちは信仰を持つとは、我を忘れてエクスタシーに走ることと考えます。エクスタシー。もとはギリシア語のようですが、魂が抜けたような神秘的な熱狂状態。ある辞書には「忘我。有頂天。恍惚。法悦」と書かれていました。
 しかし聖書の神信仰とは、そうではないのです。〈まことに私は私のたましいを和らげ静めました〉とあります。〈私は魂をなだめ〉(協会共同訳)と訳しているものもあります。自分の心のなかには何があるのでしょうか。私たちの心のなかには、和らげ、宥め、静かにさせなければならない何かがあるに違いありません。
 ある人は、自分の心に鬼を見つけるかもしれません。一昨年の特別伝道礼拝で御用をされた練馬教会の蒔田望牧師は、ご自分の教会の月報に、受難週の黙想として、自分の心のなかに野生動物を感じる人のことを書いておられました。
 そういえば同じ詩篇の73篇にはこういうことばもあるのです。詩篇73:21-22〈私の心が苦みに満ち私の内なる思いが突き刺されたとき73:22私は愚かで考えもなくあなたの前で獣のようでした〉。〈あなたの前で〉というのは、神の御前でということです。神は、私たちが、理性だけの存在でもないし、きよいだけの魂でもないことをご存じです。
 神の助けがなければ、私たちはどうなるでしょうか。罪の力(とくに原罪)は万有引力のように私たちを下へ下へと引っ張りますが、獣のような古い罪の性質(肉)には、遠心力が働いて、私たちをとんでもない場所に放り投げてしまうかもしれません。しかし詩人は、礼拝の場所に足を進めることができました。神を、〈【主】よ〉と呼んで祈ることができました。
 たとえば先ほどの詩篇73篇は次のように続くのです。詩篇73:23〈しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりとつかんでくださいました。73:24あなたは私を諭して導き後には栄光のうちに受け入れてくださいます。73:25あなたのほかに天では私にだれがいるでしょう。地では私はだれをも望みません〉。
 驕らず、高ぶらない心は、神が私の右の手をしっかりつかんでくださることによるのではないでしょうか。〈及びもつかない大きなことや奇しいこと〉に進まないのは、それよりも大きく優しい神の御手があるからではないでしょうか。
 
(乳離れした子が母親と共にいるように)
この詩人(今日の131篇の信仰者)は最後に〈イスラエルよ今よりとこしえまで【主】を待ち望め〉と同胞たちに勧めます。自分の心に深く揺るぎない確信ができたとき、他の兄弟姉妹に説得力ある奨励ができるのではないでしょうか。その揺るぎない確信は、次のような確信でした。〈私は私のたましいを和らげ静めました〉と言ったその後で、〈乳離れした子が母親とともにいるように乳離れした子のように私のたましいは私とともにあります〉というのです。
 野獣のようだった〈私のたましい〉は、いまや〈母親とともにいる〉〈乳離れした子のよう〉です。私たちの社会ではどんな人が好かれるでしょうか。ときには野獣のように情熱的な人も人気を博すかもしれませんが、ほんとうのところ私たちを安心させるのは、いつも心が穏やかで、自制心の安定した人です。
 ソシュールという言語学者だったと思いますが、人の心には《見られている自分》と《見ている自分》があるということを説きました。何千年も遡る旧約聖書の詩篇にも、《見られている私のたましい》と《見ている私》がいるのです。
 一方は〈乳離れした子〉です。乳飲み子ではないのです。イスラエルの昔は乳離れが遅く、だいたい3歳児を想像しましょうと言われています。すでに親の母乳で大きくなっています。しかし、まだまだひとりで食べ物を得ることはできません。それ以上に、母子の信頼関係がこれからも必要です。やんちゃなところもあるかもしれませんし、のびのびさせてもらいながら、見張ってもらう必要もあります。
 そして私たちが持つべき心の側面は〈母親〉のような側面です。ときには我が子の心のなかに鬼や獣を見るかもしれません。しかし自分はこれまでもこの愛児と共にあった。乳房を含ませた。そして、ようやく離乳期に入った。同じように、私たちは自分の魂を持て余しそうになるかもしれないけれど、私たちは自分自身を主に在って愛している。
 詩篇131篇、それは私たちが神の名を呼んで礼拝する到達点のひとつと思います。〈【主】よ私の心はおごらず私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇しいことに私は足を踏み入れません。まことに私は私のたましいを和らげ静めました。乳離れした子が母親とともにいるように乳離れした子のように私のたましいは私とともにあります〉。この詩篇を愛して、心の平安を私たちは保ちたいものです。
 そして多くの方々に〈イスラエルよ今よりとこしえまで【主】を待ち望め〉と言い得るものでありたいのです。
 
 一言祈ります。「愛する神。私たちは多くのことで不安になります。なすべきことに追われて、自分を見失うこともしばしばです。日常生活に汲汲とする私たちが、他の人のこと、教会のこと、国や世界の将来のことをどうして思うことができるかと考えます。しかしあなたは不思議な方で、獣のような心を持った私たちが、母親を前にした幼子のようにされて世界の事象に立ち向かいます。今日も私たちは、ウクライナの戦争が終るように、ガザでの非道な殺戮が止むように祈ります。また今も病床にある愛する兄弟のために、能登半島など被災地で苦労している同胞のために祈ります。どうか主よ。待ち望む者の平安で私たちの人生をこれからも導いてください。これからさらに群れに加わるお一人お一人に主の御顔の光が豊かに照らされますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。


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