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2024年5月19日聖霊降臨日礼拝説教「見えて聞こえる聖霊」(使徒の働き2:32~33)

聖書箇所  
使徒 2:32~33
2:32 このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。

(参考聖句) 
使徒2:1~4
2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

(参考聖句) 
使徒2:37~47
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
2:39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
2:42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号

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説教ノート    
序 クリスマスとイースター
① 主イエスの復活・昇天と
② 見聞きできる聖霊

見えて聞こえる聖霊
使徒2:32-33
 「今年もまた風清(さや)かなり五旬節」。インターネットで、埼玉県のクリスチャンの方が、俳句を披露されていました。本日はペンテコステ。イエス・キリストの復活の日曜日(イースター)から7週間[50日]を数える、本日、まさにその日曜日です。
 教会には、年中行事のような記念日があって、ローマカトリックなど記念日の多いグループもあります。また、この教会は5年前から会堂が与えられたことを記念して感謝礼拝を持っていますが、これはとてもローカルなこと、私たちの教会のみのお祝いです。
 しかし古今東西のキリスト教会が、最大公約数的に祝ってきた記念日は、クリスマスと、イースターと、今日のペンテコステの3つだと思います。
 クリスマスはご存じと思います。イエス・キリストの誕生の祝いです。神である方が人類の救いのためにこの世界に人として来られた。それは処女マリアを通して聖霊による妊娠という奇跡であり、生まれる前からの罪(原罪)を持たない救い主の誕生でした。
 しかし、それは、他の人間(私たち)と変わらない出産でもありました。主イエスは完全な神でしたが、同時に完全な人であった(キリスト二性一人格)。そうであるならば、他の人と同じように誕生日を定めてお祝いをしてもいいであろう。この方は、私たちの救い主であるのだから、感謝をこめて礼拝しよう。これがクリスマスの祝いです。
 教会の記念日のなかでも、クリスマスはわかりやすい。信仰のない人でも「イエス・キリストというすばらしい方がいたので、その誕生日を祝っている」と考えれば理解できます。それで、クリスマスは大衆的です。祝うだけではなく信仰の入口として考えて、広く伝道する機会となります。各教会でも、クリスマスに多くの人を誘います。さらに私たちの地域では協力関係を保ちながら、毎年、市民クリスマスを催しています。
 次に、イースターです。イエス・キリストは何のために生まれたのかというと、死ぬためでした。すべての時代の、すべての人の、すべての罪を背負って身代わりに罰を受けて死にます。主イエスが罪が全くない方なのに、十字架の上で死んだのは、罪に対する、神からの怒りと裁きと呪いを請け負ったからでした。主イエスは死んで葬られます。
 しかし主イエスは、死んで三日目に復活します。墓に葬られた主イエスを父なる神が復活させます。本日開いている使徒の働き2章でペテロが語っていることばを借りると、〈しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです〉(使徒2:24)となります。
 クリスマスが信仰の入口だとすれば、イースターは信仰の試金石です。使徒パウロが書いたローマ人への手紙の10:9にこう書いてあります。〈もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる〉。クリスマスは信仰の入口であると共に、信仰の奥座敷のような面もあるのですが、イースターほど信仰の中核が現れているわけではありません。
 たとえば本日の箇所、使徒2:32にも同じように言われています。〈このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です〉。神によるイエス・キリストの復活。それを信じることができるかどうかかで、クリスチャンとそうでない人を分けることになります。そうなので、イースターの祝いは重要な教理を扱っていることになり、同時に、これはクリスマスほど分かりやすい祝いではありません。
 クリスマスとイースター、教会の二大記念日と言えますが、どちらが大きく祝われるべきナンバーワンなのでしょうか。主イエスの誕生を祝うクリスマス。十字架で死んだ主イエスの復活を祝うイースター。甲乙つけがたいところです。しかし間違いなく言えることがあります。私たちが本日祝っているペンテコステは、第3位。銅メダルです。
 
(主イエスの復活・昇天とペンテコステ)
皆さん、ようやく私はペンテコステ(聖霊降臨日)の話を始めます。しかしペンテコステがイースターの50日目と決まっているように、ペンテコステはイースターすなわち主イエスの復活の出来事と大いに関係があります。またペンテコステは、クリスマスすなわち主イエスの誕生ともリンクするところがあるのです。
 それを今日はどこまでお話しできるでしょうか。
 ペンテコステは、ギリシア語の第50という意味です。主イエス復活の第50日目だと、すでにお話ししております。主イエスは復活して40日間(使徒と呼ばれる)弟子たちに姿を現しましたが、彼らが見ている間に天に上げられました。主イエスは天に昇る前に、エルサレムにとどまって聖霊を待ち望むように告げました。
 使徒1:5には水によるバプテスマと比較して〈聖霊によるバプテスマ〉について語られています。これは、神に対する悔い改めと救い主に対する信仰のしるしとして水中に全身を浸すバプテスマがあるように、聖霊に全身が浸されるバプテスマがあると教えたのです。聖霊に全身が浸されると、その人は聖霊に満たされることになります(使徒2:4)。
 またそのようにして聖霊が身近な存在となるので、イエス・キリストの生き証人となります。〈聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります〉(使徒1:8)とあるとおりです。イエス・キリストの証人とは、イエス・キリストが復活したこと、主イエス復活の生き証人でもあります(使徒1:3,2:32)。
 そして復活したイエス・キリストは40日間現れてから天に昇ってどうなったかというと、天の父なる神の右に着座されました。父なる神の右に着座(座った)ということは、父なる神と等しい権威をもって世界を治める者になったということです。主イエスは、どんな天使たちも〈もろもろの権威と権力〉をも支配します(Ⅰペテロ3:22)。
 それは、なぜでしょうか。主イエスが天に昇って神の右に座られているのは、神の救いのご計画の推進のためと言っていいでしょう。使徒5:31に〈神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました〉と書いてあります。
 今やイエス・キリストは、天地万物の支配者、神の救いの導き手であります。私たちはこう考えます。もしだれかがその国の王や首相や大統領になったとき、その為政者は治める世界のために何を最初にするだろうか。新しい王や首相や大統領が最初に進める政策はもっともその人らしいものだと思えないでしょうか。
 天に昇り、宇宙の支配者となったその方は、復活してから50日後、そして天に昇られてからわずか10日後に、このことをなさったのです。本日の箇所2:33でペテロはこのように証言しています。〈ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです〉。
 新しい天地の支配者は、ご自分が語った神の約束、いわば聖なる公約(使徒1:4)を果たされました。イエス・キリストはかつて自分が死んで葬られ、復活して天に昇らないと〈助け主〉は来ないと言いました。しかし〈行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします〉(ヨハネ16:7)と言ったのです。これこそが公約です。
 このように聖霊降臨日は主イエスの復活と昇天に連結しています。イースターの50日後にペンテコステが来るのであって、決して逆ではありません。
 
(見聞きできる聖霊)
 主イエスは復活し、40日間、弟子たちに姿を現しました。しかし天に昇り、去られました。先ほど言いましたように、主イエスが天に昇ることによって聖霊が弟子たちに与えられたのです。ですから主イエスが去って行くことは人類にとって〈益〉でした。弟子たちに聖霊が与えられたし、私たちにも与えられるのです。
 しかし、どうでしょう。以前、あるご夫婦と入門的な聖書研究を試みたことがあります。ご主人はクリスチャンですが、教会生活(信仰の歩み)からしばらく離れておられました。奥様はノンクリスチャンで、この方に信仰を持ってもらいたいと一生懸命に聖書からお話ししました。しかし、わかってもらえませんでした。残念でした。
 そしてその女性から言われたことばが忘れられません。「聖霊というのがよく分かりません」。私は、聖書でいう永遠のいのちとは、聖霊を受けることだと教えます。それは間違いないのですが、見えない聖い霊を受けるといっても、永遠のいのちより分かりにくいことばかもしれません。私は聖霊について語るのが好きですが、道を求めている人に救いを説く上で有効かどうかは話が別です。
 天地万物の造り主が分からないので、イエス・キリストが人となって来られた。しかしイエス・キリストとその救いが分からないので、聖霊の助けが必要である。子なる神は父なる神を表わし、聖霊なる神は、その父と子を表わします。そういう意味で聖霊は慎ましいお方かもしれません。聖霊の大きな役割は、父なる神と子なるキリストを証しすることです。また、聖霊は、本来、目に見えないお方のはずです。
 しかし本日の箇所で、ペテロはこう言っています。〈神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださった〉。父と子から与えられた聖霊は〈今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊〉、〈あなたがたが見、そして聞いているこの聖霊〉(岩波訳改訂新版)と言われます。
 目に見えないはずの聖霊がここで見える・聞こえると言われています。神が人となられたのはイエス・キリストのみですが、聖霊は教会を始められました。
 聖霊が見えた・聞こえたと言えるのは、使徒2章において3つの位相があるのです。
 第一は、2:1-4の出来事です。使徒2:1-4〈五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた〉。
 最初の教会は、聖霊による言語奇跡で始まりました。聖霊が教会を生み出したのであって、人間が生み出したのではありません。ちょうど聖霊による妊娠でイエス・キリストが誕生したように、聖霊の超常現象(奇跡)から教会も誕生したのです。これは御子の誕生と同じように、神の絶対的なイニシアチブ(主導権)を表わします。
 聖霊の特別な満たしは、エルサレムのある家で10日間祈りながら待っていた弟子たちから始まりました。〈激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った〉。音が聞こえたわけです。〈炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった〉。聖霊がここでは〈炎〉や〈舌〉として見えました。ペテロはこの特別なスタートについて〈見聞きしている〉(新改訳第3版)と言っているかもしれません。 第二は、2:4からの言語奇跡、2:14からの説教かもしれません。言語奇跡は、それぞれの国のことばでしたが〈神の大きなみわざを語る〉ことでした。多様な言語で神を賛美していたのです。そしてペテロは十二使徒を代表して福音を説教しました。賛美や説教を聞くことで聖霊を聞くのだ、とペテロは思ったかもしれません。賛美や伝道をする人の姿の姿によって、聖霊は可視化されるとペテロは信じたかもしれません。
 言ってみればそれは教会が世に向かって宣教する姿でしょう。しかし、もっと聖霊が可視化されるのは、ペテロの説教のあとでした。
 第3の位相、それは2:37-42です。使徒2:37〈人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。2:39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。2:42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた〉。
 ペテロの福音説教を聞いて多くの人が悔い改めました。そして主イエスを信じるしるしとしてバプテスマを受け、新しい生活を始めました。
 それは〈使徒たちの教えを守り〉。いわば新約聖書に従う生き方です。〈交わりを持ち〉。神やキリストとの縦の関係は、信仰者同士の互助や連帯を生みます。〈パンを裂き〉。これは聖餐式ですが、キリストによる救いの事実を教会は忘れません。
 〈祈りをしていた〉。教会は祈りの家を呼ばれますが、神への祈りは人を整え、将来に向かう力を与えます。聖霊が与えられるために、弟子たちが10日間待ち望んで祈っていたことを、私たちは忘れてはならないのです。昨日、ハレルヤキッズがあり、終ったあと、集った子どもたちも保護者もスタッフも喜びに輝いていました。今日礼拝後、総会をしますし、いつもの交わりもあるでしょう。教会の営みのなかに、私たちは聖霊の声を聞き、聖霊が可視化された姿を目撃するのではないでしょうか。
 一言祈ります。「愛するイエス・キリストの父なる神。聖霊を送ってくださり、教会を始めてくださってありがとうございます。人ではない神が、神ではない人を、ご自分の栄光のために、格別に福音の証のために用いてくださいます。私たちが、これからも聖霊に満たされて、キリストの身体らしく、この世に姿を現し、その声を福音として響かせることができますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。






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