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034 田原俊彦「It's BAD」(1985年)その1

作詞:松本一起 作曲:久保田利伸 編曲:船山基紀

ブラックミュージック・イン・ジャパンな話を前回に引き続き。

田原俊彦「It's BAD」(85年)は、ラップを取り入れた最初の歌謡曲と言われています。日本の一般的な音楽ファンが初めてラップ・ミュージックを意識したのがRun D.M.C.「Walk This Way」(86年)だとするなら、それよりも早いわけです。正確に言えば、これ以前にもラップ風のヴォーカルを取り入れたものはありましたが、ブラック・ミュージックとしてのラップと考えたとき、この「It's BAD」が最初だと言えるでしょう。まずはそこまでの流れをざっくり振り返ってみます。

日本における最初のラップ・ミュージックは、スネークマンショーの「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー 」(81年)でしょう。シュガーヒル・ギャングなど、シルヴィア・ロビンソンのシュガーヒル・レーベルの諸作品に影響を受けたと思われる曲ですが、そのラップにはお笑いの色が滲みます。まぁ、スネークマンショーですから当然なのですが。もう1つ、山田邦子「邦子のかわい子ぶりっ子 (バスガイド篇)」(81年)というのもありましたが、これはラップというよりはコントですね。吉幾三「おら東京さ行ぐだ」(84年)も、お笑い的要素があって成り立つものです。初期の日本のラップ・ミュージックにはお笑いの色が滲むものが多く、サブカル方面からアプローチしたラップがほとんどでした。また、「It's BAD」と同時期にNHK「みんなのうた」で放送されていたシブがき隊「スシ食いねェ!」(86年2月にレコード発売)は企画モノ。つまり、ほとんどが音楽的なアプローチによるラップではないんです。YMO「ラップ現象」(82年)は音楽的ではありましたが、やはりサブカル的アプローチでした。対して、ストリートの匂い感じられたのは、ニューヨーク帰りの佐野元春「VISITORS」(84年)くらいでしょうか。このアルバムの登場は、当時、かなり話題になったものでした。

その翌年の暮れにリリースされたのが「It's BAD」でした。作曲は歌手デビュー前の久保田利伸。既に作家デビューを果たしていた久保田は、田原にも「華麗なる賭け」(85年)を提供しており、それに引き続き、田原からの楽曲提供オファーが届きます。久保田のデモの中から、後に「Shake It Paradise」(86年)に収録される「Olympicは火の車」が選ばれたのですが、久保田が提供を拒否。それに代わって提供されたのが「It's BAD」でした。

当時、これがラップだと話題になった印象はないのですが、その仕上がりは斬新でした。田原の歌はヘタだと言われますが、リズム感はいいんです。ただ、音程を取るのが苦手だからか、歌い出しの母音は少し弱めに入って、子音を強めに出し、フレーズの終わりは音程が揺れ気味でぶっきらぼうに終わるというクセがありました。その強く出すポイントがアクセントになって、どんな歌でも”トシちゃん節”になるんですね。とはいえ、ゆったりしたバラードよりも、リズミックな曲の方が得意だったのは間違いないでしょう。

そういう意味で、破裂音の短い音節を連発する「It's BAD」は田原にとっては最高の曲でした。歌い出しの「Ba Ba Ba Ba~」のフレーズから完璧にグルーヴに乗っているし、Aメロに当たるラップ部分も、ラップ的に正しいかはさておき、見事なリズム感でこなしています。これまでのラップを取り入れた歌謡曲が<手法としてのラップ>だったことに対して、この「It's BAD」は<リズムと一体化した音楽的なラップ>だったという点が圧倒的に新しかったんですね。歌を旋律として捉えていたであろうこの時代のアイドル歌手の中で、この曲を歌えたのは田原だけだったでしょう。

ちなみに、田原は83年頃からムーンウォークをやっていますし、この曲のダンスではスプリットもやっているので、マイケル・ジャクソンやプリンスを意識していたのは間違いないと思います。もちろん、ブラック・ミュージック云々とか、そんなことは考えていないと思いますが。

それにしても、こんな斬新な楽曲をジャニーズ事務所はよく許容したものです。ジャニーズの楽曲の先進性は今でこそ認知されていますが、この当時から既に始まっていたんですね。

その2へ続きます。

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