033-涙のTAKE-A-CHANCE

033 風見慎吾「涙のTake A Chance」(1984年)

作詞:荒木とよひさ 作曲:福島邦子 編曲:小泉まさみ

先日、某DJバーの周年イベントに参加した時、某DJが「涙のTake A Chance」をかけたら、その店で働いているベテランダンサーさんが踊り出すという一幕がありました。しかも、振り付け完コピ。そう、この曲は、ある世代にとってはダンスの基本であり、この曲でブレイクダンスと出会ったという人も多い、エポック・メイキングな曲なんです。

ブレイクダンスの存在は、映画「フラッシュダンス」(83年7月日本公開)に挿入された、ロック・ステディ・クルーによるわずか1分強のシーンを通じて世界に広まりました。さらに、一部の人は同年10月に公開された「ワイルドスタイル」や翌84年の「ビート・ストリート」(ビデオ発売のみ)でブレイクダンスやグラフィティなどのヒップホップ・カルチャーに触れることになります。

それに影響されたのが風見慎吾でした。「フラッシュダンス」に影響されながらも、当時は日本国内では情報が少なく、ブレイクダンスを始めている人もごく僅か。そこで、風見はニューヨークに飛び、本場のブレイクダンスを仕込んできます。さらに、ディスコで知り合った仲間たちをバックに「涙のTake A Chance」をパフォーマンスし、それを見た人たちに衝撃を与えたわけです。これが日本の地上波で流れた最初のブレイクダンスだと言われており、しかも、ザ・ベストテンやザ・トップテンなどの高視聴率番組で流れたわけですから、その影響力たるやどれほどのものだったか。

ちなみに、バックダンサーのElectric Waveのメンバーの中には、あの"B-BOY PARK"をスタートさせたCRAZY-Aがおり、この後、原宿のホコ天でブレイクダンスとDJを始めます。80年代後半になると、ホコ天ではDJ KRUSHやMUROらも合流。そういう意味で、CRAZY-Aが初めてメディアに出たこの曲は、日本のストリート系ヒップホップのルーツのような曲になりました。ちなみにヒップホップとは、ラップ、DJ、ブレイキング、グラフィティの4つの要素を総合したカルチャー呼び名であって、ラップだけを指す言葉ではありません。

さて、問題は、このブレイクダンスを取り入れるということがどの時点から決まっていたのかです。結論から言うと、この曲は最初からブレイクダンスのために作られたものと言っていいでしょう。

シングル盤の歌詞カードを見ると、そこにはパックダンサーの"Electric Wave"の写真、そして、ブレイキングの技の簡単な図解が載っています。ここからは、ブレイクダンスというものを広めようという意思が伺えます。また、歌詞に"ブレイクダンス"というフレーズが入っていることからも、振り付けにブレイクダンスを取り入れることがもともと決まっていたのではないかと想像できます。

楽曲はどうでしょう。注目したいのはリズムトラックがローランドのリズムマシン「TR-808」、通称「ヤオヤ」で作られていることです。80年代初頭は機材の発達によりドラムにエレクトリックの音を導入することはトレンドだったのですが、なぜリンドラムやシモンズではなかったのか。それは、80年代初頭のブレイクダンスで使われる音楽には、特にアフリカ・バンバータをはじめとしたエレクトロ、またはエレクトロ・ファンクと呼ばれる音楽が多く、それらはヤオヤによる打ち込みが多かったからでしょう。BPMが120くらいというのも、ブレイクダンスにはちょうどいいテンポです。

ちゃんとブレイクビーツのパートがある点にも注目です。テレビなどのパフォーマンスを見てもわかる通り、間奏部分はダンサーによるソロ・パートになっているわけですが、ブレイクダンスとは、もともと間奏=ブレイクの間に踊るダンスというところからきたネーミングなので、まさに正当なやり方といえます。

さらに、B面はなんと、同曲のインスト・ヴァージョンなんです。これをカラオケと言うのは簡単ですが、本当の目的はダンス用のカラオケ、つまり、これでブレイクダンスの練習をしてくれという意図が見えるのです。または、ディスコにおけるDJプレイというのもあったはずです。84年当時はクロスフェーダー付きのDJミキサーなんてものはほとんどなかったはずなので、2枚使い目的ということはないでしょうが、それでもかななか画期的なチョイスであることは間違い無いでしょう。

と、もうダンスをするために作ったとしか考えられない作りなわけですが、それを作った人がダンスにあまり縁がなさそうなところが不思議です。
作曲を担当した福島邦子は、78年にシンガーソングライターとしてデビュー。この頃の女性にしては珍しく、エレキギターを持った姿が印象的な人で、ウエストコーストの音楽から影響を受けているようです。
アレンジを担当した小泉まさみはもともとは作曲家で、アレンジのみの仕事というのは珍しいはずです。しかも、素朴なメロディを得意とする人なので、欽ちゃん関係の普通の曲ではぴったりだと思うのですが、この曲のアレンジは意外中の意外でした。関係ないですが、庄野真代さんの元ダンナさんです。

なぜこの人選なのか。根拠のない想像ですが、風見が求める曲を作れる人がおらず、このコンセプトで作ってくれる人にお願いしたのではないかと思います。福島邦子さんに関しては風見と同じフォーライフ所属ということもあったのでしょう。
風見が求めるものは、踊りながら歌えるリズミックな曲であること、BPMが踊るのにちょうどいいこと、曲間にダンスするためのブレイクがあること。あとは、風見自身も音楽には特別詳しかったわけではないでしょうから、アフリカ・バンバータ「Planet Rock」なり、ハービー・ハンコック「Rock It」なり、何らかのお手本になるレコードを渡して、これを参考に作ってくれくらいのことはやってるはずです。

一つ言えるのは、風見自身の意向が強く反映されているであろうこと。欽ちゃんファミリーにしろ、レコード会社にしろ、ブレイクダンスのことなんか誰も知らない時代に、自ら踊って見せただけでなく、それを作品化し、地上波を通して広めるという離れ業をやってのけた風見慎吾の努力は並大抵のものではなかったでしょう。実は、日本はダンスの先進国なのですが、この曲がなかったら、あと数年遅れていたのかもしれません。

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