疾渡丸ノート (03) 録音し損ねスペースの補足 : 岩吉のトラウマ大海戦について
ご好評いただいている「幕府密命弁財船・疾渡丸」第1巻、「那珂湊 船出の刻」なのですが、関連して過去に何度かTwitter(X)スペースをやっております。
しかし、その第4回目、いろいろあって録音設定に失敗し、再度チャレンジしても失敗し(なぜだw)、後から聞こうとされていた方々にご迷惑をおかけしましたので、サマリを残したいと思います。
間もなく第2巻が発売されるタイミングのため、ひとつだけ、言い落としていたことについて補足しました。
第1巻第1話に出てきた、船大工・岩吉の過去のトラウマについて、です。
彼は物語の当時、60歳を超えている老大工という設定です。しかし若い頃は船乗りでした。生まれは日向国飫肥湊(おびみなと)ですが、隣国・薩摩の島津氏が重要な港湾として使っていたことから、島津水軍の一員として加わっていました。
そんな岩吉が15歳のとき、関ヶ原の合戦が起こります。有名な「島津の退き口」を敢行し、総大将・島津義弘以下ほんの一握りの兵だけが死地を脱して堺に逃げてきました。そこで大きな船を何艘も(おそらくは五艘)調達、立花宗茂の船団と合同して瀬戸内海を突破します。
ここで立花と別れ、取り舵をとって南に向かい、四国と九州を隔てる豊予海峡(速水瀬戸)を突破すれば、すぐに故郷です。先頭をいく二艘は順調に航海し南下しますが、夜の闇の中、後続の三艘がはぐれてしまいます。彼らはそのまま陸地に近づき、おそらくは地上の灯火を先を行く二艘のものと誤認して、気がつけば敵の水軍が警戒する海域に入り込んでしまいます。
そこに展開していたのは、黒田官兵衛孝高(如水)の率いる水軍です。彼らはほとんど、金で雇われた臨時の兵ばかりで、多くは能島(村上)水軍崩れの、もと海賊衆だったそうです。彼らは蝟集してこの三艘の行き足を止めようとします。
そこから始まる大追撃戦。詳細は略しますが、よくある軍記や伝説の類ではなく、おそらく本当にあった戦です。江戸時代になってから編纂された公刊資料ですが、黒田方の「黒田家譜」、島津方の「旧記雑録」ともにこの海戦についての記録が残っており、しかも相互に矛盾があまりありません。
結局、島津方の三艘のうち二艘が捕捉され、黒田方の水軍の総攻撃により焼崩されてしまうわけですが、島津義弘の室が乗り込んだ一艘だけは、その犠牲により逃走に成功しています。
筆者はかつて、この戦国時代(おそらくは)最後の海戦を舞台にした短編を書きました。現在、Amazonで短編集「宵の薬師」の第3番目に、「狩の刻」というタイトルで収録しております。
「狩の刻」では、上記資料に名の残る能島海賊、庄林七兵衛という男を主人公に、主として黒田方から合戦の模様を描きましたが、そのとき若き岩吉は、戦場から逃走した三艘めの島津船に乗っていた、という設定にしております。
記録をもとに、なるべく実際の海戦の様相を再現しようと努めましたが、ところどころ創作や、独自の設定追加などもしております。能島海賊たちが、「大小早」という低性能の中途半端な軍船に乗せられていたり、彼らが船上で、苫を利用した投擲兵器を即成したり。このあたりは、特に根拠なく筆者のイメージで話を膨らませました。
この熾烈な海戦について、より正確な情報を得たいというみなさんは、桐野作人さんの「関ヶ原島津退き口 適中突破300里」(学研新書)という歴史概説書を読まれることをおすすめします。
以上、補足となります。
第1巻、やがて出る第2巻も、ぜひお楽しみください!