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モンターニュのつぶやき「「ドラゴン桜」の真実味」 [令和3年5月10日]

[執筆日 : 令和3年5月10日]

 昨日、買い物の話をつぶやきましたら、日本を代表する射撃の名手からメールがありました。彼は、道具にはこだわりがあって、弾丸はドイツ製を使用しているようですが、輸入物ですし、当然お高いものですが、的によく当たる、当たる精度が日本製の弾よりも優れているということでした。弓道に嗜みのある人も、多分、弓矢には拘りはあるのでしょうし、ものを飛ばす競技においては、飛びの性能は道具の価格に反映するでしょう(やり投げ、ハンマー投げ、円盤投げ、砲丸投げ等は関係ないのでしょうが)し、ゴルフのボールもそのようですね。私は一番安い方のボールしか使用していないので、値段の違いを性能の凄さの違いとしては分かりませんが、高いボールは飛ぶし、そして、操作性に優れているのでしょう。
 高価な道具を持っている人に出会うと、自分の安価な道具がどこか恥ずかしいように感じる時もある、ということは私の場合はありませんが、それは、安くても性能が良ければそれで良いと思っているからなのでしょう。ブランドの銘柄に特に拘りもありませんし、車は走れば良いと思うように、ボールは飛べば良い、クラブはボールに当たれば良い程度の事しか関心はないのかもしれません。それでも、クラブやボールだけではなく、高級そうなバックを持っている人や、洒落たブランドと思しき上下のウエアーを身にまとい、如何にも軽そうで機能的なシューズを履いている人を見ると、やはりゴルフはお金持ちのスポーツなんだなあということを再確認はしますが、私は私のゴルフスタイルを貫くしかありません。それでも、時々思うのは、どんな距離からでも、どんな場所からでもカップに一回で入るような、魔法のパターが手に入るのならば、多少のお金は出してもいいかなあと。
 ちなみに、射撃の名手の方は、道具はその時点の最高の物を買うようにしているようです。道具は科学技術の粋を極めたものでありますから、そういう最先端の物を買う方が確かに理に適っている訳です。それは確かにそうなんですが、茶器のように手で触れるものは、手触り感といった感覚的なものが重要ですし、スポーツの道具もそうした感覚・フィーリングが合うのが大事な気がしておりまして、ゴルフクラブもそういう意味合いでは、必ずしも最新の最先端のクラブが一番合うとは断言できないような気がします。
 でありますから、私は、兎にも角にも、新商品で安いのがあれば、それを、なければ、中古であっても、私に買ってもらうことをずっと待っていたかのような顔つきをしたものを購入するのが楽しい人間なんでしょう。お金持ちゴルファーとは違い、高いクラブは買えませんし、買わないのです。ドライバーもウッドも、1万円前後のものしか買いません。アイアンなら、新品で5万前後、中古ならその半分の価格で購入することをポリシーとして持っているゴルファーであります。

 と、一部の人の関心事項でしかないかもしれないゴルフですが、週末に開催された男女のトーナメントが盛り上がったせいなのか、今日のゴルフの練習場も朝から長蛇の列、平日なのに、どうしたんでしょうね。ところで、週末見た池上彰さんのテレビ番組で、日本の高校の社会の教科書が変わってきている話が取り上げられておりましたが、科目に綜合という冠がついた、科目名への変更で、文部科学省というお役所は、全国レベルでの教育政策をする役所でありますが、どうも、このお役所は、時代に合わなくなっている気がするんですね。明治から昭和の時代、特に第二次世界大戦前夜まではそれなりにお役目があったのでしょうが、国レベルでの教育行政はもう無理じゃないかなあと。色々問題はあるのでしょうが、第一に、義務教育と義務教育ではない、いわゆる高等教育の目指す目的・目標が不明確であること、第二に、日本が追いつき、追い越せとしたモデル的国家はもはや見当たらないし、国民の理想的モデル(国家も個人も)がない状況で、教育は何のために役立つかがわからないこと、第三に、思考力を高めることが重要であるというのは当然のことで、また、近現代をしっかり学ぶことも当然のことであって、自分で考え、歴史の知識もある人々が大学に進学し、そして色々な分野で活躍してきた訳で、あたかもこれまでの日本人が自分で考えなかったから戦争が行われたのであるとか、日本の歴史のことを知らないのは恥ずかし
いことである、といったことは、論理のすり替えでしかないこと、等があります。
 特に気をつけないといけないのか、義務教育であろうと、非義務教育の高等教育であろうと、国の目指すのは松竹梅の竹、上中下の中、つまりは並である中間的な人材を大量に生み出すための教育であります。でありますから、思考力をつけるとか、或いは歴史の知識を増やすというのは、あくまでも並の人間向けの話でしかないのです。上位にいる若者にとっては当たり前でしょうし、況んや日本で尤も偏差値の高い大学に進んでいる若者にとっては、当たり前のことをわざわざ言っているにすぎないのではないかということです。それとも、国は、上位にいる若者に並が近づくような底上げ的な授業をして、全体のレベルをあげようとしているのかもしれませんが、そうしたところで、労働市場はそんなレベルの高い人材を今以上に吸収できるとは思えませんし、結果、大学院まで出ても、職につけない若者が増える可能性もあるでしょう。というか、お国のためには何のプラスにもならない余剰労働者を抱えるだけかもしれませんし。勉強するために頭を使うことと、仕事をするために頭を使うことが同じであれば、教育市場=労働市場が成り立ちますが、今の日本の労働市場というのは、そんなに頭をつかった高度なインテリジェンスが必要にされているのかどうなのか、その辺が今ひとつはっきりしません。
 一番の問題というか、論理のすり替えであるのは、為政者である権力者は、国民の付託を受けた途端に、常に自分たちのやりたいように社会(並の人からなる場所です)を、人間を牛耳りたいということで、失敗の責任を国民に常に転嫁してきた歴史が日本にはある訳で、頭を使わなかった、考えなかったのは国民一般ではなくて、為政者であって、歴史を学んで来なかったのも為政者であるにも係わらず、悪いのは国民一般であるとすり替え、すり替えで延命してきた、言葉は悪いですが、ある種の邪悪な日本魂のようなものを教育の分野でも感じてしまうのです。
 日曜日のテレビドラマ「ドラゴン桜」は、東大への合格を請け負う弁護士の話ですが、主人公の弁護士が言うように、東大に入るのはオリンピックに出るよりも簡単で、勉強の仕方次第では、特別の才能がなくても合格することは出来るかもしれません。真実であるかはさておいて、東大では、基本的なこと、常識とされることを今一度吟味し、オリジンに還って学び、思考する学生を求めているが故のテストが出るということでありますので、そうした傾向の問題を解く練習をした人が合格できるとか。別に東大であろうと、京大であろうと、私立の早慶もそうでしょうが、皆頭を使って考えて勉強しないと、大学の入試は成功しないでしょう。が、しかし、本質的なことを真摯に頭をつかって考えてきた日本人でありながらも、国としては取り返しのつかない負の歴史を持ったのは何故かと胸に手をあてて考えたら、高校以上の教育での問題よりももっと深刻な問題が目立たないかもしれないし、無意識のものかもしれないけれども、あるではありませんか。日本人の闇ともいえる無責任体質という民族的な体質が。これが綜合教育とやらで、無くなるのならばそれはそれで宜しいし、頭を使った思考力向上の勉強で為政者を厳しい目線で監視、評価するようになれば、それはそれで宜しいけれども、そうなるとは、私には到底思えませんね。
 なぜかと言えば、それは、人間にとって最も大切な生きる上での倫理観や道徳観を、家庭でも学校でも誰も教えることがないからであり、頭を使うなんていうのは、悪いことをするためにもある訳で、犯罪の高度化はあっても、どれだけの思考が本当に必要な領域で役立っているのかわかりません。中世であれば、教育の機会は平等ではなかったし、学問の自由も制限されていた訳ですから、令和はものすごく恵まれていると思います。それでも、未だに教育機会の平等=幸福の平等という訳でもないようですし、この辺が教育の難しさでありましょう。しかし、お国がすべきこととして永遠に残る仕事は環境造りにあることには変わりはなく、学びたい人が学べるような環境を、頭を使って考えたい人が考えながら学べる環境を、研究成果としての学者の歴史認識を自由に内外で表明ができる環境を整備をすることではないかと思う次第ですが、最後の整備が難しいのであれば、国に多くを期待することは出来ませんが、それでも、為政者が自由で、平等に「対話」が出来る人を育てる教育が本当は国にとっては一番大事であると考えてくれる日が来ることを期待したいと思います。

 並の人間ではなかった、天才パスカルのことをつぶやくつもりが、並を扱う日本の教育をうかつにもつぶやいてしまいましたが、パスカルのことは襟を正してつぶやかないといけないと思っておりますし、趣味のお話と一緒しては、失礼になると思っております。
 今日はこの辺で。

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