モンターニュの折々の言葉 356「自分で掘った穴はきちんと自分で埋める」 [令和5年4月3日]

 年金生活者には特段新しいことがある訳ではない、4月からの新年度。旧年度と同じように、今日は朝はゴルフの練習場へ。旧年度で身につけたであろうスイングをちゃんと身体が覚えているかを試すのが目的の一つですが、幸いまあまあ。ところが気を抜くと、悪い癖のシャンクが出て、思案しながら、正しいであろうと思うアドレスをして、テークバックをしてやったら上手く行くのですが、明日は分からない。機械ではない人間が、毎回毎回、同じ動作をするのは至難のこと。しかし、プロはそれがかなりの精度でできるのでしょう。

 プロといえば、石川遼選手、残念でした。3日目を終えて首位でしたが、今平選手に追い越されてしまい、3打差の3位に。最終日に63を出されたら、流石に石川遼選手でも難しいでしょう。「パットの感覚が最後まで合わなかった」と言っておりましたが、ゴルフはショット以上にパットという、感覚的なものが重要なんでしょうね。

 感覚といえば、音楽ですが、音楽家の坂本龍一さんが71歳で亡くなり、昨晩ニュース番組でも一報があり、今日の朝刊1面で大きく報じられておりました。人の死の大きさを知るには、メデアがどれだけ注目しているかということが一番わかりやすいのですが、滅多にないような出来事、前代未聞的なことがあれば号外が出ます。テレビやラジオでも、緊急ニュースとして生番組を中断して報じられます。尤も、日本沈没のような大地震が来たら、メディアが報ずる間もないとは思いますが。

 日本の著名人、世界的にも名の知られた方が亡くなられると、朝刊の一面、あるいは夕刊の一面で報じられ、その次位の方は、社会面で。でも、なんとなく嫌ですな。こうして人の死の大きさをメディアの扱いの大きさで測るというのは。ただ、不思議というか、いつもそうなんですが、葬式が終わった後で、著名人の死が報じられていることがですが。かつて、昭和天皇が崩御された際は、その事実は何時早く報道された訳で、この辺との兼ね合いで、今ひとつよくわからないのです。かつて中国では、皇帝が亡くなっても、長い間、その死を隠しておいてことがしばしばあったと書にありますが、為政者の死の場合は、国民の動揺とか動乱を回避するためでもありましょうが、日本でも、もしかしたら、かつては死をなるべく知らしめないようにしてきた時代もあったかもしれません。

 公人と私人の違いはありましょうが、世界的に著名な方の死は、出来れば早く知りたい。勿論、早く知ったから何ができる訳ではないけれど、ですが。大江健三郎さんも亡くなり、坂本龍一さんもあの世に。実は、私は坂本龍一さんは生では見たこともないのですが、どこかこの人はある人に風貌が似てきたなあと思ったことがあります。それは、丸メガネのせいもあるでしょうが、大江健三郎さんにもそうですが、画家のレオナルド・藤田に。

 日本人でフランス、特にパリの市民によく知られた芸術家といえば、戦前戦後では藤田がダントツでしょう。人を風貌で判断してはいけませんが、天才的な風貌とも言えます。そんな天才的な風貌に坂本龍一さんが似てきたなあと、ずっと思っておりました。2014年に中咽頭がん、2021年には直腸がん、そして2022年6月には肺癌に。ほぼ10年間にわたり癌と戦いながら、音楽活動や社会的な様々な活動をしてきたことはすごいことだなあと、つくづく思います。

 確かに日本人男性の平均余命である80には届いていないので、71で亡くなったのは若すぎると言えないこともないでしょうが、いや、私なんかからすれば、70を越えるのはけっこう大変なことじゃないのかなあと。もしも、それまで全力で走ってきたならですが。のんびりジョキングのように走ってきたなら、70は単なる通過点でしょうが、それまでの69年を、フルスピードで駆けてきたのなら、70は到達点でしょう。改めて、古希稀なりの言葉は今も真実を告げているなあと。

 坂本龍一さんの死がテレビで流れたその日の午前中、我が国の首相は、「筑波カントリークラブ」で日本を代表する財界人達と芝刈りをしていたようですな。そんな人たちがするコースですから、かなりの名門コースだろうと思って、ネットで検索すると、週末はメンバーは安いけれども、ゲストは3.5万円位(キャディ付きで)。朝早くからプレーしているので、昼食を途中で取らずに18ホールを通して出来たとは思いますが、高い料金だなあと思いますね。高ければ良いという考えが日本にあるのかわかりませんが、ゴルフ場に限らず、レストランでもそういう風潮がないわけでもないのが、今の日本ですな。ホテルや旅館もしかり。

 そういう風潮とは無縁な年金生活者のモンターニュは、今日は、ゴルフの練習と、そして、2020年4月から読んできた本をリスト化するために入力作業をしているのですが、結構面倒。面倒なのは仕方がないとして、一番大事なのは、読んだ本のことをどれだけ覚えていたかということなのですが、これがなんとも、トホなんですな。

 書名だけとか、あるいは、なんだコレ?みたいな本もあります。プルーストの「失われた時を求めて」は、幸せだった過去の時間を文学で、言葉で蘇生するのが目的の一つでもありましたが、この読んだ本のリスト化も、似ていなくもない。書いて記録に残すことが、必ずしも記憶したいために記録する訳ではないけれども、書いて残した文字、言葉から、過去が蘇ることはあるでしょう。

 坂本龍一さんは、多分、永遠に残るものを、音の言葉によって遺したと思います。私は、せいぜいのところ、自分の記憶を再生、あるいは蘇生するために読んだ本のリスト化の作業をしながらも、私が読んだ本のリストを見て、興味を示す人がもしかしたら一人くらいはいるかもしれないという、俗に言うスケベ根性がまったくない訳ではないのです。このスケベ根性というのがですね、枯渇するのが一番よくない。

 スケベでなくても良いのですが、根性というのは和的な大和言葉かもしれませんが、心のエネルギーと身体のエネルギーを足した、情熱と同意義のもので、常に新しく再生させないといけません。勿論、枯渇させてはいけません。病気になるのは仕方ありません。癌もしょうがありません。ただ、この情熱の火を絶やさないようにすること、これだけですね、私が日々心しているのは。

 ですから、明日は、千葉の「川奈」と称される、高級なコースに出かけて、大いに芝を刈ってこようと思っております。勿論、飛ぶ鳥跡を濁さずといいますので、キャディは使わずに、自分で掘った穴ぼこはきちんと自分で埋めて参りますので、ご安心を。

 では、今日は短めですが、失礼いたします。

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