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Pai -父という名の学校-

ぼくの名前はレオナルド。またの名をトシオという。友達からはレオ、家族からはトシと呼ばれている。見た目は日本人だけど、パスポートはブラジル人。いわゆる日系ブラジル人というやつだ。サンパウロ州の港町サントスで生まれ、6歳の時に家族と一緒に日本にやってきた。いわゆる出稼ぎだ。ポルトガル語でもそのままデカセギという。その後はずっと日本で育ち、今では日本のパスポートを持っている。

職業はプロサッカー選手で、もうすぐ26歳になる。Jリーグで数年プレーした後でヨーロッパに渡り、いくつかのチームを経て、昔からの夢だったスペインのチームに今年から在籍している。日本代表の試合にも出ているので、ぼくの名前を聞いたことがある人もいるかもしれない。

ブラジルといえばサッカー王国として有名だけど、ぼくのような日系人がプロサッカー選手になるのは、実はかなり珍しい。日系人の家庭ではサッカーより勉強をさせることに熱心な親が多く、実際ぼくの周りの日系の友人たちもほとんどがブラジルの有名な大学に進学し、卒業後はエンジニアや薬剤師、弁護士やビジネスマンとして働いている。逆に言うとぼくだけ変わった人生を歩むことになったわけだけど、その理由はぼくの父親の過去にある。

もともと父は多くの日系人と違って、幼い頃からとにかく勉強よりサッカーに情熱を持った人物だった。ただ、彼の両親(ぼくの祖父母だ)は父に勉強をさせたかったので、サッカーを徹底的に禁止してしまった。しぶしぶ勉強の道に進んだ父は大学を卒業して仕事に就き、やがて結婚したわけだけれど、そんな自身の過去をふまえ、もし将来自分の子が真剣にサッカーをやりたいと言い出したら、人生を懸けてとことん付き合うと決めていたらしい。そこに生まれてきたのがぼくというわけだ。だいたいそんな親のもとで育ったらサッカーに興味を持たない方が難しいというものだけれど、結果として日本代表にまでなったのだから、若き日の父が決意した「とことん」がどれ程のものだったか、ご想像いただけると思う。

実を言うとぼくは、本格的にプロサッカー選手を目指したいと自ら宣言した10歳のある日を境に、一度も学校に通っていない。なんと父は、まだ幼い息子のプロ志望宣言を聞いた翌日にいきなり会社を退職すると、ぼくが通っていた学校にも一方的に無期限の欠席を伝えてしまったのだ。それまで学校が中心だったぼくの生活が、完全にサッカー中心のそれに変わった瞬間だった。

「会社やめてきたぞ!学校も終わりだ!今日から一緒に頑張るぞ!」

満面の笑顔とともに力強く叫んだ父の、あの高揚した表情を今でもよく覚えている。ぼくはといえばただただ呆気に取られて、まず口から出たのは「大丈夫なの?」という不安の言葉だった。実は学校に行かなくてよいことには内心かなり安心していたのけれど(父には黙っていたが、来日してから一度も学校になじめたことがなかった)、それよりも工場勤務の出稼ぎ外国人が貴重な勤め先をいきなり辞めてしまうことの重大さくらい、当時のぼくでも想像がついた。しかし当の本人は涼しい顔でこう答えた。

「いつかお前がプロを目指すと言い出す日に備えてな、父さんはお前が生まれる前からずっと今日まで準備してきとったんだ。任しとけ!」

実際、蓋を開けてみるとその言葉にウソはなかった。どうやら父は来日して間もない頃から、勤務先の上司や派遣元の社長さんに自分の「プロジェクト」の話を熱心にしていたらしい。豪快ながらも真面目で誠実な人柄の父は職場でも普段の生活でもブラジル人と日本人の両方からずいぶん信頼されていたようで、退職届を出した時の周囲の反応が「遂に来たか!」だったということを、もっとずっと後になってから父の友人に教えてもらった。

退職から間もなく、父はサッカーと語学を教えるスクールを立ち上げた。幼い頃から親に隠れて技を磨いたサッカーと、学生時代に熱心に勉強してマスターした英語、そして来日した時にバカにされないようにと完璧に身につけていた日本語の能力を活かして、教育の道に進んだのだ。日系人ながらブラジル仕込みの父の指導スタイルは地元の日本人の間でも噂になり、短期間でなかなかの生徒数を抱えるサッカー教室になった。英語の教室には日本人とブラジル人の両方が年齢を問わず集まったし、ブラジル人のための日本語教室も盛況だった。

こうなると必然的に父自身がめちゃくちゃ忙しくなりそうなものだが、スクールが始まるのは夕方からだったので、むしろ日中は時間を自由に使うことができた。つまり生徒達がやってくるまでの時間に、ぼくは毎日みっちり父からサッカーの指導を受けることになった。

父のサッカー教室は、親しい日本人を通じて安く貸してもらった土地に自ら芝生を育てて作ったコートを使用していたので、そこが二人の練習場になった。というより皆さんお気付きだと思うが、まさにこれこそが父の目的だったわけだ。自前の練習場で時間を気にせず、とことんサッカーに取り組める環境を実際に作ってみせたのだから、もはやぼくも彼を信じて本気でついていく決心がついていた。学校に行かなくて済むというのもあったけれど、何よりプロになりたいと宣言した気持ちは真剣だったし、逆に言えば、ぼくが本当に本気でそれを口にする瞬間まで、これほどの情熱と行動力を持った父が決して動かず待っていたのだと思うと、幼いなりに頭が下がる気持ちもあった。

頭が下がるといえばもうひとつ。父の考え方、つまり指導法だ。

「サッカーしか知らない人間には絶対になるな」

これが父の口癖だった。曰く、サッカーに全てを捧げることとサッカーしかやらないということは全く別の話だと。人生にはサッカーより大事なこともたくさんあるから、それを絶対に見逃してはいけないと。そしてサッカーの競技人生は短いから、その後も立派に生きていけるよう今から頭を使えるようになりなさいと。そういう考え方だったから、特に時間の使い方について、徹底して自分の頭で考えるよう鍛えられることになった。

「身体はちゃんと休めなきゃいけないから、サッカーの練習はどんなに頑張っても1日数時間が限度だ。夜はたくさん寝ないといけない。それにごはんや風呂や友達と遊ぶ時間を足しても、まだまだ時間は残ってる。どうする?何をする?何をしたい?何をしたらいいと思う?」

少しいたずらっぽい笑みを浮かべながら、でもあくまで真剣な表情で、日々何度もこの問いを向けられた。そしてぼくがその答えを自ら出していくために、少しでも気になることや分からないことがあったら、何らかの方法で調べるか、父に直接質問するよう言われていた。

その結果、最終的にぼくが選択したことのひとつが、父のスクールに生徒として出席することだった。家では主にポルトガル語で話していたから日本語はちゃんと勉強しなきゃダメだと思ったし、英語ができたことで父が職場で尊敬されていたのも知っていたので、ぼくもまず言葉だけはちゃんとやっておこうと考えたのだ。そのことを父に伝えると、何かを確かめるようにゆっくりうなずきながらぼくの目を見つめた後、ニヤリと満足げに笑ったのを今でも覚えている。

幸い家業だから月謝もかからないので、毎日ほとんどの授業に顔を出した。他の曜日と同じ内容の授業をする日もあったので、そういう時は結果的に復習のチャンスになった。途中から新たに先生を雇ってそろばん教室も始めていたので、それにも熱心に通った。何より、色んな学校からやってくる子達と友達になれて、それが一番嬉しかった。おそらくそれも父の計画の内だったのだろう。実際、サッカーにも時間の使い方にも厳しい父親だったけれど、スクールで仲良くなった子達と家を行き来したりして遊ぶことに関しては、約束した時間を守っている限り一度もダメだと言われたことがなかった。学校では全然できなかった友達が自然と増えて、ようやく日本での生活が楽しくなっていった。

それから約2年後、12歳で地元のJリーグクラブの下部組織のセレクションに合格し、プロへと続く道に入ることができた。父との自主練習はその後も続き、試合も遠征を除けばほとんど全部観に来てくれた。試合の後は毎回コメントやアドバイスをもらい、もっと上手にプレーするために熱く議論するのが恒例となった。この習慣はプロになった今も続いている。

結局そのまま一度も学校には行かなかったけれど、ぼくにとってはある意味、他のどんな学校に通うよりも充実した学校生活を送っているような感覚だった。英語とそろばんで勉強の楽しさに目覚めていたので、オンラインの教育サービスも使いながら自分で色々な科目を学んだ。それに、父の部屋はサッカーの指導法や各種トレーニング理論のほか、食事・栄養や心理学、言語教授法や経営学・会計学の本でいっぱいだったので、それらの本を読み漁るのも楽しく、とても良い勉強になった。お陰ですっかり読書にハマり、プロサッカー選手になった今も色んな本を読みながら勉強を続けている。いざプロになってみるとずいぶん自由時間の多い職業だったので、幼い頃から身につけてきた時間の使い方がしっかり役に立っている。つくづく大した父親だなと思う。まんまと彼の術中にハマって本当にサッカー選手にまでなってしまったけど、おかげさまで今のところ、幸せな人生を送っている。かつて英語教室で机を並べていた幼馴染と結婚し、家庭を持つこともできた。サッカーより大切な、ぼくの一番の宝物だ。

そんなぼくが、実は今月、いよいよ父親になる。生まれてくる子がぼくのようにサッカーを選ぶかどうかは分からないし、正直どちらでもいい。ただ何であれ、我が子がこれと決めて何かを真剣に選ぶ日がきたら、父が自分にしてくれたように、ぼくも人生を懸けてとことん付き合ってやりたいと思う。

(おわり)




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