本体を直接捉えに行こうぞ

何かに対してcreditを発行して自分の状況を対外的にシグナリングするということと、自分の脳みその構成を物理的に変化させるということの違いがもっと知れ渡ってほしい
例えば何かを学ぶために大学に行くというのは分離できてなくて、学んだことを対外的にシグナルするための学位と、脳みそに情報を継続的に入れて回路を物理的に変えるということを分離して認識してもらわないと。ゼロで留学しても英語喋れるようにはならぬ、脳みその回路構成は飛行機に乗っても変わらん

これらのツイートに続けて書き連ねる。

潜在能力と、その能力を外部に伝えることは別問題

学歴とか、資格とか、とか、ああいうのあるじゃないですか。どこどこ卒業したの、凄いね!とか、〜何点なの、凄いね!とか。

それすなわち、個人の脳みその中身を、資格なりなんなりで部分的に測定して、自分はこういう特性を持っていますよという情報を外に出す活動のことなんですけど、これと、実際の個人が持つ能力(すなわち脳の神経回路網の構成)を混同しまくってる事例が多いよなあと、思いました。

例えば

例えば、TOEIC900点とかあるわけですけど、こういうのって、その点数が取れたからどうだとかいう話じゃないんすよね。もちろん、間接的に、こういう点数が取れたからこうだとか言いたくなるのは分かるし、便利だからいいと思うんですけど、実体はなんなのかというと、脳みそなんすよ。

個別に丁寧に考えるとハッキリしますけど、TOEIC〜点っていうのは、その試験時間20XX年X月X日X時において、Aさんの脳みそを使って、ある課題に対してアクションを起こさせて、間接的にそこから得られた情報ということですよ。だから、その時刻XX以前と以後のAさんの状況なんて知ったこっちゃないし、その試験からは本質的にはなんもわかんないわけっす。それだけじゃなくて、取れる情報っていうのはその試験のデザインと、本人がどれだけその試験に真面目に向かうかというところに大きく依存するわけですから、なんか、拡大解釈して、TOEIC X点だから〜〜〜みたいなのは、なんとも。もちろん便利だからいいんすけど、実際それの情報量あんま多くないですからね。

これと全く同じ論法で、学歴に関しても同じことが言えますけど、あれ、XX大学なんだ、凄いね!とか言いますけど、その情報が最低限保障するところは、その試験を受けたAさんがXX年XX月XX日のXX時に試験会場に存在して、試験を受けて、出題された問題に対して何かアクションを行なって、その結果がいわゆる合格と言われるものだったっていうだけですからね。それ以上の情報は完全に推測ですからね。

もちろん、事実上、〜に受かるために、〜点を取るために、何ヶ月、何年と自身の脳みその神経回路をじわじわと変化せて準備している場合が多いでしょうから、試験に合格した・X点取れたという事実から、過去の状況を推測して、おそらくこの人は過去においてXXXXということをしたんだろう、だから信頼できるとかいうのは確かに言えるっちゃ言えるし、それは判断する側の勝手すけど、本当に勝手ですからね、それ。


で、これ、怪しいのが、そういう測りに行く場所を用意しちゃうと、測りたい側のAさんたちが、そのフォーマットに合わせて脳みそを最適化しちゃう場面が多いんすよね。英語喋るようになったり、数学の問題できるようになったりするのはあなたの脳みその構成が物理的に変わったからということですよ。別にそれを精度の悪い何かで測らなくても、あなたの脳みそはそのままで存在してるからそれでいいんじゃないかっていうね。

もちろん、環境を用意しにいくとかモチベーションがどうたらとかそういうのは大きな要因としてあるけども、少なくとも、何かの課題を行う時に実体となるのは自分の脳みその回路構成がどう反応してどう変化するかということだけであって、外部の試験とかなんかはタダそれを頑張ってなんとか測定しようとしてるだけということは認識した上でやったほうがいいんじゃないか。そこの区別は出来た方が、結局学習とやらもスムーズなんではないかと。

要するに

現代では直接的に脳みその状態を全スキャンして他人に伝える方法がないから、学歴なり資格なりなんなりで自分の脳みその模様を間接的にお伝えするしかないわけですが、その

他人に自分の脳の状況を伝える(aka 学位を取る、資格を取る)

ということと、

自分の脳みその回路構成を変化させる(aka 知識をつける、勉強する)

ということは独立ですからね。極端な話、サウザンドリンガルになっても喋らなければ他人からしたらわかんないから。でもそいつの脳みそは、他人に伝えようが伝えまいが、サウザンドリンガルな神経回路網を持っているからね。

あなたを記憶します