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聖徳太子が日本仏教の開祖になるまで(吉村武彦)

今日紹介するのは、吉村武彦氏の『聖徳太子』です。とても客観的に書かれた一冊だと思ったので、共有してみたいと思います。

学んでみたい方はこちらをどうぞ

本日の説

『日本書紀』の段階では厩戸王子は仏教興隆上の歴史的人物ほどの評価はされていなかった。厩戸王子は傑出した仏教理解者であった。厩戸王子の死後、近親者から厩戸王子の神格化が進んでいった。初期の太子信仰が進展したきっかけは730年代(天平年間)だと考えられる。奈良時代後半から、多くの仏教説話集が編集された。『日本霊異記』『三宝絵』『大日本国法華経験記』『上宮聖徳太子伝補闕記』『延暦寺僧録』『唐大和上東征伝』『聖徳太子伝暦』『今昔物語』『伝大師全集』『東大寺要録』『大鏡』『親鸞伝絵』『三帖和讃』など。歴史書の時代から信仰の世界へ聖徳太子が描かれていった。

根拠はコレダ(歴史上の人物について)

著書のなかで、大化改新の時、

厩戸王子の名前がない。


改新の詔の一種の、僧尼詔では仏教興隆が主張されています。


しかし、仏教政策を根拠づけるために


出ている名前とは?


蘇我稲目と蘇我馬子でした。


厩戸王いないのです。


大化改新は645年とされています。


蘇我が殺されても、


権威は衰えません。


厩戸王子は傑出した仏教理解者であり、

事実は、当時、歴史的人物とまでは評価されていなかった


という内容が書かれています。


根拠はコレダ(天平年間について)

皇室から特別な目線が。、

733年光明皇后(聖武天皇の妻)が法隆寺にお供え物をしたことが


記録されています。


739年上宮王院というお寺も、

光明皇后ほか、


重役方の後押しがあったことがわかっています。


730年代が初期の太子信仰の進展のきっかけになったと書かれています。

↓参考文献です。今日語ったことは、ほんの一部に過ぎません。

もっと知りたいと方はこちらをどうぞ

引用元が書かれていないものはすべて↑上記の参考文献から引用しております。なお、文意を、要約、取捨、選択、加筆、修正を行なっています。著者の趣旨と違えている場合があります。その場合ご了承ください。著者が、本のなかで他者の理論を引用していたりしています。その場合、本文の最初に、誰と誰の説なのかを書かせていただいております。なお、私の自説についてもわかるように明示します。





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