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気になる隋文帝に派遣した理由(井上光貞氏)

なぜ倭国は100年ぶりに隋に使者を派遣したのでしょうか?「ある本の中から」オッと見つかったので、紹介していきたいと思います。

→ある本はこちらからご覧いただけます

気になった本日の説

600年の初めての隋へ使いを派遣した理由は、隋の冊封体制が新羅にもおよんだから。新羅との任那問題の解決には新羅の主君となった隋文帝との交渉が必要になった。

根拠

581年、隋が建国されたあと、朝鮮諸国の動揺を機ととらえて軍を筑紫に送り、新羅を威嚇して任那の検疫を回復しようとした。しかし、594年になると新羅は隋に朝貢し、「楽浪郡公新羅王」に冊封された。隋の冊封体制は、朝鮮三国に拡大した。翌年(595年)日本は筑紫から軍を撤退させた。

冊封体制って何ですか?

中国の皇帝に王と認めてもらうことで自国の権威や体制の安定をはかる仕組みのことです。皇帝としても、朝貢してくれるだけで権威が高まるので、winiwnな関係なのです。

新羅はなぜ冊封されようと?

新羅は日本や百済と問題を昔から抱えていました。高句麗と百済はさっそく隋に冊封してもらいましたが、新羅は東側の僻地であることもあるので、あえて隋に朝貢する必要まではなかったと解釈できます。しかし、倭国がガンガン攻めてくる状況で隋の背中を借りてやれば倭国は簡単に攻めてこれないと踏みました。実際に新羅の思惑通りにいきました。倭国は軍を撤退させました。

何年ぶり?

正確には98年ぶりです。502年に、倭王武が遼(南朝)が建国されてすぐに最後の使者を派遣しています。600年の遣隋使となると、98年もの間、中国と外交を行なっていなかったことになります。

倭国はどう考えたのか?

新羅が隋に冊封されたことがわかりました。隋の臣下になったということなので、倭国が新羅に攻撃を仕掛ければ、隋の介入を招きます。倭国としては、朝鮮半島南部の故地を回復させたいという思惑がありました。そのために、ガンガン軍事力で攻めてきた500年代だったのですが、軍が使えなくなったために、交渉せざるをえなくなったのです。しかも臣下と交渉しても仕方がない。親玉である隋と交渉しないと行けなかったのです。

まとめ

日本の外交は基本的に、他国に依存します。どの国でも同じですけど。古代史の時代はまったく同じで、倭の五王の時代も、変化したことは倭国側ではなく、中国側でした。 日本は海に囲まれているので、ほぼ自国だけでで事がすみます。あえて他国に使者を派遣するということは、他国に「変数」があると先入観を持ってかかっても概ね間違いないでしょう。他国に右往左往させられるのは今も昔も変わらない。さらに学びたい方はこちらへ

参考文献

『飛鳥の朝廷』,井上光貞,講談社,2004

引用元が書かれていないものはすべて↑上記の参考文献から引用しております。なお、読みやすさや文の体裁をととのえるために、本文を要約、取捨、選択、加筆、修正を行なっています。著者の趣旨と違えている場合があります。可能なかぎり正確な理解を心がけていますが、万が一の時はご了承ください。


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