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倭の出身だと??の新羅王がいた?

脱解は、本、多婆那国の所生なり。其の国は倭国の東北、一千里に在り。第一、脱解尼師今即位前期(新暦57年よりも前)

→(新暦57即位より前)新羅第4代王、脱解(57〜80)は、婆那国(タバナ)の出身である。婆那国(タバナ)は、倭国から北東に千里いったところである。

倭国と好を結び、交聘す。第一、脱解尼師今三年五月=新暦59年6月

→新暦59年6月、新羅第4代王、脱解は、倭国と外交し修好を交わした。

倭人、木出島を侵す。王、角干羽烏を遣わして、之を禦がしむ。克たずして、羽烏死す。第一、脱解尼師今十七年=新暦73年

→新暦73年?月、倭人は蔚山の沖合の目島?に侵攻してきた。新羅第4代王、脱解は、角干羽烏を派遣して、侵攻を阻止させた。しかし、角干羽烏は勝利できず戦死した。

脱解王の出身はなんと?

婆那国(タバナ)です。はっきりとどこかはわからないです。しかし、2020年現代では、丹波(タンバ)とか但馬(タジマ)といった国名が残っています。おそらくそこじゃないかと昔から言われています。倭国が北部九州とすれば北東方向は婆那国(タバナ)ですから。

千里は?

参考程度に、魏志倭人伝は帯方郡(ソウル)〜狗邪韓国(金海市)〜対馬〜伊都、奴国を表しています。1万2000里です。『邪馬台国の全解決』によると、実数は10倍に誇張されていたので、実数は1200里です。もちろん、時代ごとに尺の長さが少し変わるので一概に言えないのですが、ソウル〜福岡が海伝いに1200里なら、倭国(福岡)〜婆那国が1000里というのは、いい線いってます。千里は遠いという意味を表しているので、厳密計算までは難しいです。

新羅と倭国が初めて国交を結んだ?

新暦59年のお話。新羅が建国されたのは、前57年です。建国されてから100年以上が経っています。前108年前漢武帝が楽浪郡として平壌まで占領しています。馬韓弁韓辰韓と呼ばれた時代です。小国家がたくさんあったという状況でした。新羅も倭国と好を結ぶ必要性はまだなかったのではないでしょうか。

倭種の国々から

脱解王は、要は日本からやってきたということですが、当時はまだ現代のような国境だったりの概念がありません。婿養子に迎え入れてもらったのでしょうか。

予想外なことでしたが、ちなみに倭国が後漢に朝貢したのが57年でした。何かありそうですね。

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