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ホンマに?倭と新羅はむかし戦争してたのか?!

はい。ガンガン記述が残っています。

121-123年の倭と新羅の戦い

倭人、東辺を侵す。 第一、祇魔尼師今十年四月=新暦121年5月『三国史記』

→新暦121年5月、倭人は新羅の東側へ攻撃を行った。

大風、東より来る。木を折り、瓦を飛ばす。夕に至りて止む。都の人、訛言す。倭兵、大いに来ると。山谷に争い遁(のが)る。王、命じて、伊飡翌宗等に之を諭止せしむ。 第一、祇魔尼師今十一年四月=新暦122年5月『三国史記』

→新暦122年5月、新羅の首都慶州に、大嵐が東からやってきた。木をなぎ倒し瓦を飛ばした。夕方になって止んだ。慶州の人々の間で噂が拡まった。「倭兵らが大軍で押し寄せる」と。山や谷に避難した。新羅の第6代王、祇魔尼師今(112〜134)は、命令を下して、第二等の翌宗などに話し合いをさせ、戦争になるのを止めた。

倭国と和を講ず。第一、祇魔尼師今十二年三月=新暦123年4月『三国史記』

→新暦123年4月、新羅の第6代王、祇魔尼師今は、倭国と終戦協定を締結した。


歴史記述がピンと来ない方へ

昔、むかし、倭国と新羅の間には戦争が頻繁にありました。教科書では載りません。これからもたくさん紹介していきます。121ー123年もそのうちの一つです。代表的なものでいくと、今回と、3世紀後半、4世紀後半、その他白村江の戦いもそのうちの一つです。

121年5月戦争が

始まりました。理由は書かれていませんが、新羅と倭国の抗争の理由は、基本的に鉄山の利権です。たかが鉄されど鉄です。軍事力国力に直結しますので、とても重要でした。倭国にとってみれば、新羅さえいなければといった心情でしょうか。

どんな攻撃の仕方?

東側なので、海から攻撃ですね。弓矢を海から放ったか、上陸して陸戦をしたかというのは考えられると思います。

嵐はメイストーム?

大嵐が来たのが、122年5月とされています。5月の時期はシベリアからの高気圧か、揚子江方面からの高気圧が前線とともにやってきます。もしも5月が本当なのなら、メイストームと呼ばれる、季節外れの寒気渦が特に日本列島を嵐に巻き込みます。「東より」というのは、風向きが東から西に吹いていたということ。新羅の慶州は東側が日本海に面しています。東側の風が吹くということは、慶州の少し西側にすでに強力な低気圧があって、寒冷前線通過時に、瓦が吹き飛ばされるほどだったとなります。

嵐は台風?

現代の感覚からするとあり得ないですよね。でも。台風が東寄りから半島に到達することは過去にあります。だとしても、日本を通過する際に勢力がかなり奪われるはず。そうなら、台風が九州の西側を通り、九州に上陸せず朝鮮半島に直接襲来したとすれば、新羅の慶州にとっては南から東寄りの風が吹きます。果てして真相はどうなのか?とにかく、とても強い風だったことは確実です。

記述時期のズレ?

だとすれば、記述のタイミングがずれてしまったことが考えられます。国難の時なので、特に記述は乱れやすいです。歴史のメモを残そうだなんでやってる暇ではありません。倭人が攻めてくるのも、暖かい時期が多いので、5月もあながち間違いではないのかも。

倭人がくると噂が拡がった?

三国史記に記述されていないだけで、たくさん攻撃はあったと思われます。あと、新羅は台風が日本に比べると通りにくいです。だから、あまり経験したことのない台風でズタズタになって恐怖におののいている時に、噂が広まることは十分に考えられます。近所のおっちゃんおばちゃんらが発信源ですか? もしそうだとしたら、むかしも今も変わりませんなあ。

終戦宣言は履行されたのか?

今後の再び戦争したという記述がないので、終戦は履行したものと考えられます。

どんな交渉があったのか?

倭人が新羅を攻めるという書き方なので、場所としては、倭国の首都(北部九州)か、倭人の多い狗邪韓国(金海市)で交渉は行われたのでしょうか。倭人が慶州まで来るのは少し変わった感じです。ならば、何を引き合いに終戦するかというと、鉄山の利権と輸送路の安全の確保でしょうね。鉄は何よりも重要なもの。利権も輸送路もセットでようやく鉄製品が手に入ります。なので、鉄山の利権と輸送路の安全確保として無難なのかもしれません。


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参考文献:『三国史記倭人伝 他六篇』佐伯有清、岩波文庫、1988



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