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東の天子 人がちがう?

隋の煬帝に送った、有名なフレーズ。しかし、そこにはちがう名前が書かれていた。

学校の歴史教科書は『隋書』倭国伝から

大業三年、其の王多利思比孤、使を遣して朝貢す。使者日く、『聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝貢せしめ、兼ねて沙門数十人、来りて仏法を学ぶ』と。其の国書に日く、『日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々』と。帝之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂ひて日く、『蛮夷の書、無礼なる者有らば、復た以て聞する勿れ』と

→西暦607年、倭国の王、「タリシホコ」が使者を派遣して隋の煬帝に朝貢した。使者が申し上げて述べるに、「海の西の菩薩の皇帝がたいそう仏教を興隆させているとお聞きしました。それゆえ、倭国の王、「タリシホコ」は、使者を致して、朝貢させることになりました。合わせて、出家の者10人も来ており、仏教を学ばせていただきます。」と。倭国王の「タリシホコ」がしたためた、国書にこう書かれてあった。「日が出るところの天子が、国書を、日が沈むところの天子にお送りします。お元気でしょうか、などなど」と。隋煬帝はこの国書を見て喜ばず、鴻臚卿に伝えて述べられた。「蛮族の国書めが。無礼者、二度と朝貢してくるな。」と。

タリシホコて誰よ?

九州王朝の王(天皇)とされています。


この国書は

推古天皇と聖徳太子が送ったんじゃ?


と思われる方多いと思います。


推古天皇は
「タリシホコ」という名前は


ついてないですし、


聖徳太子は

あくまで皇太子なので、


王や天皇ではありません。


『隋書』倭国伝には

阿蘇山ありとも


書かれており、


まるで

奈良の大和の光景とは


かけ離れた描写が

なされています。


だから、九州王朝の王(天皇)だと言われるのです。


日本列島のどこに返使者は行ったのか?

翌年608年、

隋煬帝は返使者を日本によこします。


隋書には、

竹欺(福岡)から東は倭国に属すると書かれています。


倭国の都は福岡です。


属国のもとに出向く必要はないです。


なので、行ったのは福岡です。


そこに、

隋からの返使者が到達して、


国書を届けましたと。


あれ返使者が行った場所がちがうぞ

日本の正史『日本書紀』には、

難波の高麗の館(むろつみ)と


書かれています。


608年の四月に筑紫、


六月に難波、八月に京(飛鳥?)です。


国書を失くした?

しかも、

難波での会談の際の、


隋からの国書をなくしたというのです。

もう意味わからへん。


どう考えるか?

一応、

私も古田学派の人々と同じく、


九州王朝の事績を盗用して、


『日本書紀』の一部を書いた、と解釈しています。


事実は?

筑紫までは本当にあったことで、


難波の高麗の館は新たに付け足した


のでしょうか。


確かに、

二ヶ月開くのでリアルな感じはします。


行き来するだけでも何日もかかります。


他にどう考えるか?

587年あたりで


九州王朝が難波や河内を占領して副都にした、


という説もあるので、


難波には、九州王朝の館が新築で出来上がって、


「王都が二つあるよ」と


案内したかったのでしょうか。


さらにどう考えるか?

このお話は、

推古天皇の項目に書かれているので、


難波の後、


さらに、


飛鳥まで行って


推古天皇と会談した


とでもいうのでしょうか? 


大和に行く理由は?

大和に行く理由としてなら、


仏教が主題の一角を占めるので、


飛鳥に当時できていたのは、


壮大な「法興寺=飛鳥寺」です。


九州から遠くまで、倭国の天子の徳が及んでいるとでも


示したかったのでしょうか。


ナゾです。


なぜ日本の歴史教科書は飛鳥時代大雑把なのか?

はっきり言って難しい

かと言って、


明快な貫く解釈が出せていない


のも現実のようです。


大和王権のみとする場合は

ちんぷんかんぷん。



かと言って、



九州王朝説からも明解に説明をしきれていません。

確実だと断言まではなっていません。



そらあ、教科書でうわっつらしか教えられないわなあ。

と感じた次第でございます。

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